アマビエ 新潟起源説の謎
国立歴史民俗博物館「歴博」第170号 2012年1月30日より
「海出人之図(越後国福嶋潟)」江戸時代 国立歴史民俗博物館蔵
世界中がコロナ禍に襲われた2020年。
私は今年の県内の小雪をいい事にずっと新潟県内の山城遺構を訪ね歩いておりました。世の中の自粛ブームと全く無縁でマスクも三密も無くノーストレス。新潟県の城郭マニアの方はどうぞ古城址狂氏のHPをご覧ください。例え怪しい人物が写っていても気を失ったフリをお願いします(笑)
謎のアマビエブーム
そんな日常の4月前半、東京の広告代理店に務める友人から変な絵がラインに送られて来た。その下手くそな絵はカッパとも人魚とも区別がつかない。カッパか?と聞くと「アマビエ」と答えが帰って来た。私の「アマビエ」初遭遇である。
よく調べてみると、「新型コロナウイルスが国内で広がり始めた2月末、妖怪掛け軸(じく)の専門店がアマビエのイラストを描いてSNS上に投稿したのがきっかけといわれている」(朝日新聞電子版 6/6)その後、ツイッター上で「写して人に見せなさい」という言い伝え通りにイラストレーターらが絵を描いたり、アマビエを工作でつくったりする投稿が増え、「#アマビエチャレンジ」といったハッシュタグも生まれ、拡散されていった。(朝日新聞電子版 4/12)のようである。
私が山籠りをしている間、巷では妖怪が跋扈していたようだ。「妖怪」と言われれば人後に落ちない私がほっておける訳がない。新潟の地方紙「新潟日報」6/1日に次のような記事が掲載された。
6/1 新潟日報 ふむふむ
アマビエの原型は新潟に出現した「アマビコ」
新潟日報にはアマビエの前身は新潟に出現した「アマビコ」であると書いてある。降って6/6の毎日新聞には4回連載でアマビエついて同様な記事がある。少し長いが毎日新聞の記事を引用する。
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アマビエの正体を追って(毎日新聞 4回連載)
「その姿を絵に描いて見れば利益がある」と読むことができる史料とどこか愛 嬌(あいきょう)のある風貌から、インターネットを中心にその画像や2次創作 が日々拡散され、アマビエの「流行」はとどまるところを知らない。だが、その人気に反して長野さんは「アマビエを後世に伝える史料は、『肥後 国海中の怪』が唯一のもの。どこで作られたものかも分からない」と話す。「そもそもアマビエは別の妖怪だった。その妖怪の意図的な『書き換え』、あるいは『書き間違え』から生まれたのがアマビエと考えられます」と長野さんは分析する。一体どういうことか。
<中略>
長野さんが古文書の整理作業で県立図書館(福井市)が所蔵する「坪川家文書・写本『越前国主記』」をパラパラとめくっていると、突然、目の前に異様な妖怪の図が現れた。「気持ちが悪いものが描いてあるな」肉筆で描かれた、毛むくじゃらの猿の頭部から触手のような3本の足が生えた不気味な姿。文書は越前国(現在の福井県)の領主や大名などを列記した「越前国主記」を、同市の豪農・坪川家の人間が江戸末期~明治期にかけて写し書きしたものだ。しかし、その怪異の図は国主記の内容とは明らかに無関係のものだった。
<中略>
―越後国(現在の新潟県)の浦辺で海中から出てきた海彦(アマヒコ)は「当辰(たつ)年に日本人の7割が死ぬ。我が姿を描いた絵図を見た者は死を逃れることができる」と申した。「なぜ文書の中にこのような絵と文が載せられているのか、その理由は分かりません」この図の怪異こそが、アマビエの正体を探る上で重要な鍵。当時、認められたものとしては最古となる妖怪「アマビコ」が描かれた新史料だった。
越前国主記 アマビコ図
「予言獣」という言葉がある。これは妖怪研究家の湯本豪一氏が、人間の未来を予 言して伝える妖怪の名称として広めた。そ の代表例とされる一つの怪異を巡るニュー スが、毎日新聞の前身である東京日日新聞 の1875(明治8)年8月14日号に掲 載されている。
「雑報」として載せられた短い記事では
「越後のくに湯澤驛(新潟県の湯沢駅)」 近くの奇妙な「信仰」が紹介されており、ずんぐりむっくりとした毛の生えたダ ルマのような「天日子尊」(あまひこさま、あまひこのみこと)のイラストが付けられているのが目を引く。
新潟県湯沢町の田んぼに現れた「天日子尊」(アマビコ) 東京日日新聞
引用終わり
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以上の記事を要約すれば、熊本のアマビエの出現した2年前、越前国主記に新潟の海にアマビコが出現して同様の予言をしていた。明治になっても新潟県湯沢地域ではアマビコの絵を玄関に貼り付けていた。アマビエはアマビコの伝言ゲームによる言葉の変形である。という事だ。
これは民俗学者の湯本豪一氏が主張している事とほぼ同じである。新潟日報・毎日新聞の記事は湯本氏の説をトレースしただけである。新潟日報・毎日新聞ともアマビエの起源がアマビコにあるとするのはいいけれど、その背景となる新潟とアマビコの関係は深く触れていない。毎日新聞に至っては新潟県湯沢地域でアマビコが現れたと当時の毎日新聞の前身の新聞が報道しているのに、新潟県内では取材もしないでスルーするという厚顔無恥ぶりである。新潟県民としての血が騒ぐのである。
誰も新潟県とアマビコの関係を深く考えないのであれば、私がやるしかない。そして将来アマビコを新潟県民の文化財として商標登録し逼迫する県政の財源にあてる。この壮大な妄想の元、以下に少し私の考えをまとめたい。
宝島社アマビエセット いろんな商品が売られている
疫病よけの風習の原型は蘇民将来伝説
民俗学者の湯本氏はアマビエを「予言獣」と捉え次のように言う。「自分ではどうしようもない疫病から救ってくれる妙法を伝授してくれるのが予言獣なのです。それも決して難しいことではなくて、予言獣の姿を写して拝んだり、門口に貼るだけでよいのです。それが藁にも縋る思いの多くの人々の心を掴み、素朴な予言獣信仰が広がったと思われます。」
SNSのない時代、自分の書いたものを人に見せるのは簡単なことでは無く、必然的に模写したものは門口に貼ることになる。そうすれば家の前を通る人に見て貰えるからだろう。
ここで指摘されているアマビコ(エ)の絵を門口に貼るという風習がとても重要に思われる。それは私が疫病よけのアマビコ信仰の原型と考える蘇民将来信仰の形態と同じだからである。蘇民将来信仰について『新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典 』から引用する。
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蘇民将来には、紙や板の札に「蘇民将来子孫之門」とか「蘇民将来子孫繁昌也」と書いて、家の戸口に貼って魔よけとしたり、畑に立てて虫よけとする風もある。
『備後国風土記』逸文には、旅に出た武塔神(
引用終わり
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『備後国風土記』逸文に
「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されている(Wikipedia)ということである。素戔嗚尊が国津神系とはどう言う根拠か知らないが、その息子とされる大国主命は確かに国津神とされる。これは日本の古来の母系制が強く作用しているとみる。素戔嗚尊(須佐之男命)の娘の須勢理毘売命の須勢=須佐で父系による姓の継承が読み取れる。素戔嗚尊が日本書紀の別伝で韓国経由で渡来した記載があるが、大陸の遊牧民起源である父系制をもたらした可能性が強い。しかしなぜか、父系制の強い渡来神も代を重ねると日本の母系制に侵食されて父の姓を受け継がなくなる。天之日矛命も同様で子孫は父の姓では無く母方の「多遅摩」を継いでいる。(古志郡三宅神社の伝承 天美明命 は一代だけ父方を継いでいるが注目すべきこと)。父系制の伝統を先祖返りさせるほど日本の母系制の影響力は強いのである。
したがって、湯元氏がアマビコがアマビエと名前が変わったのは、単なる写し間違いと解釈するのは少し物足りない気がする。日本の民俗の古い基層に母系制の文化があり、大和政権による日本の統一以前には女性を中心とした国津神の多様な地域国家社会があった。肥前国風土記には数多くの土蜘蛛の女酋が登場する。アマビエの出現地肥後国も同様だったろう。宗教を司る女酋を尊重する風が強いこの地域では、アマビコ(彦)がアマビメ(姫)と容易に変化し、メからエと音が省略化・変化しアマビエとなったのではないか。
そしてさらにアマビコは単なる妖怪としての予言獣では無く、古くから託宣を下してきた日本の国津神の成れの果てなのではないかと簡単に想像がつく。母系制を基盤にした国津神は大国主命のように父を天津神に持ち国譲りで帰順すれば神として崇拝されるが、多くの国神はまつろわぬ者として扱われる。私は「アマビコ」もその一人だと思う。
コシは天孫降臨以前の国津神王国
その証拠に、新潟県内の伝承には「アマビコ」に類似した名称のまつろわぬ者が多く登場する。その典型が弥彦神社に伝承される凶賊アマゼ(安麻背)伝説である。アマゼは身長が1丈6尺余り(約4.8メートル)もあり、海中に飛び込んで素手で大魚をつかみ取り、けものを素手で打ち殺すほど力が強かったという。のちに弥彦大神に帰順して家来になったとの伝承である。アマゼのアマは天および海、セは妹背の背すなわち男性を表す。アマゼの居住したところは現在、新潟県新潟市西蒲区の間瀬と呼ばれる地域である。アマゼがちじまってマゼである。東北太平洋側に吹く凶風「ヤマセ」は日本海側「アマゼ」の対句という指摘もある。海を活動拠点とした「アマビコ」と「「アマゼ」は海と国津神という点で関連性がある。
もう一つ「アマビコ」は湯沢の事例では、田んぼに現れたという。こうなると海との関係は皆無である。しかし、コシにはもう一人コシの凶賊アヒコが存在する。アヒコは阿彦と書き本体の伝承は豊受太神宮禰宜補任次第に「越國荒振凶賊 阿彦在(天)不従皇化とある。富山藩の御前物書役・野崎伝助によって享保期に著された、越中の神代からの歴史、説話、伝承を扱った『喚起泉達録』にも登場し「垂仁天皇の御代、越中で阿彦という凶賊が反乱を起こした。天皇は大若子命を越中へ派遣した。大若子命は姉倉姫の神託によって阿彦を征伐した」とされる。活動の中心地は今の富山県のようであるが、新潟県の式内論社である小千谷市の魚沼神社の主祭神はアヒコ(阿彦)であると伝承される。(江戸時代後期編纂の「北越雑記」記載)
「アマビコ」と「アヒコ」は海での関連性は薄いが、今度は太陽信仰である「ヒコ」で繋がっている。太陽信仰は対馬のアマテル神や男神であるアマテル神信仰などの事例から、天皇家以前にすでに日本で成立していたとする説が有力である。天皇家以前に国津神が太陽信仰を受容していて「ヒコ」を自称していたのも、記紀に登場する太陽神である饒速日命を崇拝する長髄彦からわかる。
他にも、越後国風土記逸文に登場する「八束剥」、弥彦神社の伝承に登場する「九鵙」(くも
ましてや、磐座が神を降臨させ憑依させる装置と考える私にとって、国津神の神託は同じ線上にある対象物である。アマビコは天孫系に先行して太陽信仰を受容した新潟県内の国津神系の海洋民と言うところが妥当な解釈ではないだろうか。江戸時代になってその地霊を修験者などの幻視者が目撃し神託を受けたと言うことではないか。
何れにしても天日子尊とも書かれるアマビコが新潟県の民俗風土と無関係に出現したことだけは絶対に考えられない。
アマビコ伝承の本質は「私は県内在住者です」
蘇民将来伝説では
蘇民将来伝説でわかることは、疫病が来訪者によってもたらされると言う事を当時の人がすでに知っていたと言う事である。素戔嗚尊は蘇民将来に子供はいるかと聞いている、と言うことは素戔嗚尊と蘇民将来の娘は会っていないのである。娘だけが三密を避けられたのである。
生き残った娘の「
アマビエ・アマビコの絵を描いて戸口に飾るのも全く同様である。その際、疫病から逃れるのはもちろん、来訪者ではない事を宣言して同胞からの自粛警察の攻撃からも身を守る効果があることはいうまでもない。
崇神朝時代にも疫病が大流行した際、神託が降り国津神である「大物主神」をその子孫の大田田根子に祀らせたら治ったと言うのも同様な流れだろう。崇神朝時代には渡来者が急増したと考えられる。欽明天皇時代も同様で仏教の渡来と同時に多数の渡来人が訪れ疫病が大流行し、激しい崇仏・廃仏論争が起きている。
疫病と国際化、祭祀は切っても切れない関係だ。