古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

『謎の百塚』と太陽信仰・行者の道-2

f:id:koshi-miyake:20220304173748j:plain

三宅関連文字資料出土遺跡分布

長岡南部ー小千谷は太陽信仰の集積地

 前回の『謎の百塚』と太陽信仰・行者の道-1では、長岡南部から小千谷市にかけて朝日夕日の太陽信仰伝説とそれに関連する百塚が存在することを紹介し、太陽信仰の場所が古くは古墳等の墓地や聖所として関連し、その祭祀には「日置」氏が深く関与していることをことを考えた。そしてその事例は県内でも見ることができることを紹介した。

 当地域の百塚は古墳ではなく中世に造られた可能性が高いとされるが、構築年代の新旧によらず、このように大規模で特殊な性格を持つ構造物が、何の宗教的・政治的背景を持たずに、自然発生的に暇にまかせて民衆の間で造られたとするのは考えずらいだろう。下の地図にも書かせたもらったが当地は10km四方の間に太陽信仰に関すると思われる地名・神社・伝承が集中する集積地である。

 特に朝日夕日長者伝説では他に長岡市釜沢町(夕日の原)にも夕日長者伝説があり、市文化財平安時代の千手観音坐像を有する釜沢観音堂の棟札に、「漆千杯朱千杯朝日映夕日輝木本有」の口承歌謡を伝え、付近の夕日の原に米塚糠塚灰塚の三古塚と夫婦石の伝承を伝えている。

 同様な埋蔵金伝説口承歌謡として温故の栞では新発田市の南杉山観音堂の石碑と岩船郡桂村の石碑を伝えているが、朝日夕日の地名や長者伝説に連動して伝わるのはそう多くはない。「朝日」の文字は好字のために近年の新興住宅地の町名として好んで使われてきたが、そのような新興町名を除くと明治以前の古くからある「朝日」町名は県内でもそう多くはない。

 特に朝日山や朝日川、朝日が原といったような固有地名が周辺に存在する町名となると当地を除いてほとんど皆無に等しい。朝日夕日長者伝説は温故の栞や他の伝説集を見る限り県内の他に地域にはそう多くはないし、ましてや朝日地名に関連した伝承となると殆ど皆無で当地は非常に貴重な事例になる。

f:id:koshi-miyake:20220214140732j:plain

式内三宅神社と太陽信仰

 また、神社の例では日置郷の「旦飯野神社」に対応するものとして「三宅神社」の存在が考えられる。三宅神社の性格として古くから朝廷の直轄地としての屯倉との関連が言われているが、ただその音が似ているからといって神社の起源を屯倉と短絡して考えて、神道の中核である氏族制度の中での祖霊信仰との関連を無視して考えることは出来ないだろう。

 結論から先に言うと、三宅神社の「ミヤケ」は屯倉の「ミヤケ」ではなく太陽信仰の「御明」(ミアケ)から来ている可能性が非常に高い。姓氏録に三宅連が天之日矛命之後、三宅人が波多武日子命之後と書かれているが、この両者の三宅を関連させたり屯倉と結びつけるような記述や根拠は何も見当たらないからだ。

 しかし、一見何の関係もない天之日矛命と波多武日子の系譜を母系という観点で見ると一変する。高群逸枝氏は「母系制の研究」の中で古系譜の例として、古事記から天之日矛命の系譜を分析して「多遅摩氏」と「須鹿氏」の二つの母家系譜を抽出しているが、これは天日桙命は日本の古い習慣である母系制を取り入れて定着して来たことを示している。

f:id:koshi-miyake:20220306104201j:plain

天之日矛系図 
*三宅連は姓氏録に諸蕃に分類されるので波多武日子命とは別系統

阿加流比売神の失われた系譜ー三宅人系

 一方、記紀には半島から逃げ帰った天之日矛命の妻神、阿加流比売神の系譜については何も書かれていない。古事記に難波の比売碁曾の社に鎮まるとされ、日本書紀にはその後豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという記載を最後に消息は途絶える。この原因は大和岩雄氏や松前建が指摘するように、本来権力とは無関係で一般的な信仰であった太陽信仰が大和王権によって統一・吸収・独占されていった過程にあるのだろう。

 日本語の色彩言語は古代には赤(明)・黒(暗)・青(淡)・白(顕)の4つしかなく、これが生死を司る太陽の明暗・死と再生への信仰からきているのは容易に想像出来る(「古志の冥界を司る「青の系譜」青木長者伝説」でも少し考えて見ました)。この明かり信仰は火山信仰や御来光信仰を含有しながら原始太陽信仰へと統合されていったと思われるが、権力と無関係な原始太陽信仰の象徴こそが阿加流比売神だったと考えられる。大和岩雄氏は「アカルヒメは日神を祀る巫女、日妻の大日孁貴が日神天照大神になったのと同じである。」とし天照大神の一つの原型と指摘している。

 阿加流比売神は「アカルヒメ」=「明姫」であり太陽の光を神格化した太陽信仰を表す神に他ならないが、波多武日子命の妻神とされる「天美明命」(アメノミアカリ・アメノミアケ)もまた「明」という名前を母から受け継いでいる。 姓が「天」なのは生まれたところが父系制だった大陸系だったことを示している。朝鮮の曽尸茂梨(ソシモリ)に天下ったとされる須佐之男命の娘の須勢理毘売命が当時としては珍しく父系の「須佐(須勢)」の苗字を引き継いでいるが同様な例だろう。そのずっと後の武内宿禰の時代でも国内では母系が主流で、その子供は全て母方の姓を引継ぎ武内の姓を継いだものは一人もいない。

 このように母系を中心に考えると関連性のない天之日矛命と波多武日子命の末裔がなぜ同じ「三宅」を名乗るのか理解できるようになる。それは記紀には記載されなかった太陽信仰の原型である阿加流比売神の失われた系譜だったということである。

 また「三宅」の漢字は日本語の(ミケ)に対する当て字であり、屯倉の(ミケ)とは起源をことにしている可能性が高い。語源的には「ミ+アケ」であり、構造的にはミヤ(宮)=御+屋と同じ接頭語「御」が「明(赤)」についた「御明」だろう。三宅族は食糧庫を管掌する屯倉族では無く、阿加流比売神を始祖としてその子天美明命と続く太陽信仰を管掌する母型集団「御明族」だということだ。

f:id:koshi-miyake:20220306111151j:plain

三宅神社由来書の太陽信仰の痕跡

阿加流比売神の失われた系譜ー難波吉士系

 波多武日子は河内にも系統を残しているが、そちらは難波 や吉士・難波忌寸という集団である。姓氏録に大彦命孫波多武彦命之後也あるいは大彦命之後也と伝え、三氏とも難波忌寸と同祖とされる。姓氏録には渡来系とは別の皇別に区分されて記載されるが、従来の父系からの解釈では半島の官位である吉士を名乗る理由が見当たらない。

 しかし、この場合も母系で解釈すれば難波 や吉士・難波忌寸の母方の先祖が半島から渡来した渡来人であり、古事記にある難波の比売碁曾社の記述や波多武彦命との関連性を考えれば、それが三宅人と同じ阿加流比売神を祖神とした太陽祭祀集団であった可能性が高い。またそれを裏付ける根拠も豊富に存在する。

 まず大和岩雄氏は「難波」の語源を朝鮮語の「ナル-ニハ」と解し、太陽光の「ナル」と出口や門を表す「ニハ」で「日の出の地」の意味とした。同様に東成郡・西成郡の「ナル」も朝鮮語の「日」の意味とする。

 直木 孝次郎は「難波・住吉と渡来人」の中で難波地域の有力氏族を
  東成郡--難波忌寸・日下部忌寸
  西成郡--吉士・三宅忌寸

としているが、日本書紀の記述から難波忌寸と日下部忌寸は、もと草香部(草壁)吉士で同族であったとする。また、三宅忌寸は三宅連と同じく新羅天之日矛を祖とする同族と考えてよいとする。これらの事から東成郡と西成郡の有力氏族全体が母系で結ばれた阿加流比売神の後裔だったことになる。

 日下部忌寸については丹後国風土記逸文にある日置氏と日下部の関連や日子坐王と日下部の系譜からも太陽信仰と日下部は深い関係があることは明らかで、安康天皇の時代には難波吉士日香香(なにわのきしのひかか)が大草香王(大日下王)に殉死している。 

 大草香王(大日下王)は波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ)の別名も持つが、波多はおそらく波多武日子命と同じ系統の半島をルーツとする母系を表し、毘能は「日の」で大日下とともに太陽信仰を濃厚に表していると思われる。大草香王(大日下王)は根使主(ねのおみ)讒言で安康天皇に殺害されるが、根使主もまた悪事が露見し討伐対象とされた時、官軍を「日根」で防戦したと伝えられる。日根の地名もまた太陽信仰である「日」と日本の古い他界觀である根の国の思想を表す「根」を併せ持つ宗教地名であり、太陽祭祀権を巡る統合の過程の三つ巴の争いだった可能性がある。

 このような太陽祭祀の統合過程を考えると、難波吉士族の祖廟である摂津国島下郡の「吉志部神社」の祭神が何故、姓氏録にあるように大彦命や波多武日子命ではなく「天照大神」なのかがわかる。本来は母系の祖である太陽神「阿加流比売神」を奉祭していたのだが、太陽祭祀統合の過程で父系の祖である「天照大神」に置き換えられたのだろう。

 三宅と太陽信仰についてはまだ書くことが膨大にあるのだが後ほど改めて書き直したい。ここでは三宅神社の性格が日置郷の旦飯野神社の性格によく似ていることを指摘していきたい。木本雅康氏は「日置・壬生吉志と氷川神社」の中で「日置と吉志の性格がともに太陽信仰に関わり、大和王権の尖兵的役割を担っていたらしいということを考えると、両者の聞に何らかの関係があったと予想することができょう。」と指摘している。

http://hist-geo.jp/img/archive/163_017.pdf

 また「日置」は元々太陽信仰の盛んであった地に派遣された大和王権の統治組織の性格も指摘されているが、これは「三宅」も同様だと思われる。次回は三宅に先行する太陽祭祀の痕跡を考えたい。

 ブログトップの「三宅関連文字資料出土遺跡分布」図は2009年の加茂市教育委員会の馬越遺跡報告書の引用であるが、注目して欲しいのは一番上の胎内市中条町の船戸桜田遺跡から2003年に出土した「三宅人神」という墨書土器である。三宅人は神に使える氏族であることがはっきりと書かれている。最後の参照としたい。