古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

『謎の百塚』と太陽信仰・行者の道-1

f:id:koshi-miyake:20220209140320j:plain

温故の栞 朝日百塚挿絵

 行者の道は鳥に関する地名や岩に関する地名に付随して全国各地に見られると「山の民・川の民」(井上鋭夫)の序文で石井 進は指摘する。しかし、その地域に固有な歴史的宗教的な背景を持たずに突然「行者の道」が出来上がるとは考えにくい。やはり修行の聖地としての修験道に先行するそれなりの宗教的基盤があったのではないかと思う。 

 この地に濃厚に分布する地名や神社、伝承から、それが日本古来の「太陽信仰」がではなかったかと考える。また修験者は「山の民・川の民」にもあるように鉱脈ハンターとして製鉄にも深く関わり、それを経済基盤としていたからこの地にも多くの製鉄地名や伝承が存在する。「太陽信仰」と「製鉄」はこの地に「行者の道」を成立させた二大要素と考えている。今回は行者の道に先行する「太陽信仰」を考える。

f:id:koshi-miyake:20220208120311j:plain

長岡小千谷ー太陽信仰関連図

謎の百塚と朝日夕日長者

 長岡市旧越路町の朝日原と小千谷市三仏生には南北に直線的にのびる大規模な塚群が存在する。両者とも豊富な伝承・伝説を有しているが、発掘しても何の手がかりが出てこないため、誰が何のために築いたかわからない「謎の百塚」と呼ばれてる。

下記にその伝承・伝説の概要を記載する。

 

小千谷市 三仏生百塚

 

f:id:koshi-miyake:20220209142522j:plain

三仏生百塚ー南端末

三仏生三仏生堂(温故の栞)

 其以前は夕日村と唱えたり、又村西小丘の上を夕日の長者ケ原と名付く。永禄年中豪族此處に住し三島郡朝日の豪族三輪家と豪富を競いしと伝えり。夕日長者が志願ありて築きし塚なりとて、其邸宅地跡に小塚百十有余連続す。近年里人相謀りて塚上毎に観音の石像を置けり。因みに記す。当村は信濃国戸隠山に由緒ある地なりとて、往古より夏日旱魃の憂いなしと伝う。

おぢやの伝説 百塚 (小千谷青年会議所HP)

 三仏生の西方の丘地に、百四十あまりの小塚があります。むかし三島郡朝日の長者と富を競っていた夕日長者が、祈願することがあって築いたといわれていますが、歴史的にはまだ解明されておりません。その中のひとつに、この多数の塚は夕日長者がそこに財宝を埋め、それが判らないように、同じほど樹が茂って、それが約二キロメートルも続いており、不気味な雰囲気をかもしだしていたのですが、戦争中にこの付近が臨時兵営になったため、木は伐られ、道は改修された上、村人によってそのいくつかが掘り出されたこともあって、今は昔の面影はありません。

 百塚の近くで子守りをしていた母親がいました。あまり子供が泣くので、百塚を数えはじめました。九十九まで数えましたがまだ泣きやまないので、またもや数えました。「百」。すると今まで泣いていた子供が泣きやみました。母親は「おお、よしよし」といってあとをふり返ると、子供の首がありませんでした。驚いた母親があたりを探しますと、さっき「百」と数えた塚の上に子供の首がありました。それ以来、百塚を数えた人はいないといわれています。

 百塚を数えようと、ローソクを百本持って一本ずつ塚にたててはお参りをした人がいたそうです。最後の塚をお参りし終えた時、ローソクが二、三本残っていたということです。ところが、別の人が百五十本のローソクを持って、同じようにお参りをしたところ、最後の塚に行かないうちに、ローソクがなくなったということです。

 他国者の船頭が、ヒゲだらけの顔に太い眉を動かしながら、三仏生の船頭相手の茶屋で茶碗酒をあおりながら、百塚の話を聞いて気炎をあげていました。 「全部数えると目がつぶれるだの、さもなくば死んでしまうなんて、そんな馬鹿な話があるか。よし、今夜おれが塚の数を数えてやらあ。」茶屋の亭主がとめるのも聞かず、彼は日の暮れるのを待って百塚に行きました。しかし、村人は翌朝その船頭の無惨な屍体を百塚の入り口で発見しました。屍体の首には、山犬の噛み傷がハッキリ残っていたそうです。

f:id:koshi-miyake:20220209142756j:plain

三仏生から見た朝日山ー日生山(ひ生山)

小千谷市HP(百塚)

 塚が作られた年代や性格について書き残された文献は今のところ発見されていません。そのため、多くの謎(なぞ)や伝説などに包まれています。例えば、長岡市越路にある「朝日百塚」の朝日長者と比較され、夕日長者伝説が知られています。朝日長者にせめられた夕日長者が財宝を隠すため塚を造り、盗掘されないよう同じような塚を多く構築したという伝説です。また、庚申(こうしん)信仰に基づいて天変地異の災いから免(まぬが)れたいという祈願を込めて作られたという説や、昔の街道に沿って造築された道標ではないかともいわれています。

 

長岡市 朝日百塚

朝日の古城跡(温故の栞)

 城山南麓の谷間に権ヶ沢と言うあり、伝に天文年中此処に権と云う奇児住居す。幼にして父母を亡い孤児となる。古志郡蓮潟村堂の木と言う処に住せし某の母(世に名高き弥三郎が母なりと)を彼が乳母なりしとて、時々来りて愛育す。此の婆後邪法を学び悪逆長ぜり、権は年頃となりけれど妻なし。婆は京都の豪家三輪某の愛女を掠奪し来り、権が妻とす。この時女の携帯せしは僅かに金四五枚、而己権は敢えて活計に關せず赤貧洗うが如く家内に一物無く床に臥を常とせり。妻はこれを憐み権に金判一枚を持たしめ村へ遣わし米を買はしむ。

 権は往々渋海川に水鳥の遊ぶを見て、携える金判を投げうち之れを驚かしめ、米を買わずて帰る。妻の責るを権は意とせず、且曰く彼様のものは我家の土台下に巨多埋めありと。妻は権に金判の尊さを諭し之れを掘しむるに、果たして数萬枚の金判あり。妻は権を奨励して同地の山上へ広壮なる家屋を造り、田園を求め其富饒なるを遠近の鳴る人称して朝日の長者と言う。

 権は過ってその父祖の姓何たるを知らず故に、女の姓を襲うて三輪を冠す。城主因幡守康重と刎頸の交わりを結びしが故、同家落城の後三輪家も禍害に罹る茲に於て夫妻は婢僕に金品を分与し、家を火して何れへと退転せり。其の子孫は在る処衆説區々にして、其真を得ず長者ヶ原と称する処には、権が築きしと云う大小の塚数多あり、里俗は百塚と言う

越路町史

 越路原や朝日原の段丘には、朝日長者や夕日長者の話がある。たとえば、来迎寺の原地内の百塚群には、朝日長者の侵略に備え、夕日長者が一夜にして塚を築いたが、九十九基まで建てたところで遂に鶏が鳴いて一基足りないと伝えられている。
百塚については、信仰心によるもの、開墾時の草寄せ場、古戦場など諸説あるがそれを崩すと由来りがあるといわれているのは、それらの地域が、普から記憶に残すべき重要な場所であったことを意味している。

 

以上の伝承・伝説をまとめると、

  1. 三仏生百塚は夕日長者が作り朝日百塚は朝日長者が作った。
  2. 朝日長者と夕日長者はお互いに競い合った関係である。
  3. 塚を粗末にしたり数えたりすると祟りや天罰がある。
  4. 三仏生は夕日村で夕日長者は戸隠山に縁がある。越路の朝日長者は京都の三輪家に由緒がある。ほかに朝日将軍(木曾義仲)に縁があるとの説がある。
  5. 三仏生百塚には財宝を埋めた伝説があり、朝日百塚は黄金を持つ奇児の権(ゴン)が造ったとの伝説がある。
  6. 越路町史によると越路原や朝日原の段丘には、三仏生とは別にそれぞれ朝日・夕日伝説がある。三仏生(夕日村)のすぐ対岸にも朝日山や日生山(薭生村=「日生るの意味から古来日生村」と書いたが時の領主の名により書き改めたと伝説がある。:角川地名辞典)があり越路の朝日夕日伝説と対応すると考えられる。

太陽信仰と古墳・塚の関係

 太陽信仰は日本の神道の中核思想であるにも関わらず、これを本格的に研究した事例をあまり見かけない。折口信夫は「髯籠の話」の中で太陽信仰に触れているが、その中で論じられた標山・依代論は後世に受け入れられた一方、太陽信仰論は今ではほとんど顧みられず、研究者も手を付けたがらない現状がある、と柳田國男記念伊那民俗学研究所の小川直之所長も指摘している。この研究に取り組んだのはわずかに、松前 健、井上辰雄、大林太良、在野研究家の大和岩雄の各氏を見るくらいであるが、その中でも一番熱心に取り組んでいるのは大和岩雄氏だろう。

 大和岩雄は「神と人の古代学(太陽信仰論)」の中で、古代日本人の太陽信仰は朝日・夕日信仰であり、古事記に記載される「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」等多くの古史料に残された国褒め宮讃えの賛美の対象は朝日夕日であって、天上で照り輝く日神(天照大神)ではないとする。古来の太陽信仰は天照大神を頂点とする王権的な垂直思考ではなく、長者伝説等の民間説話にも登場する朝日夕日賛美のように王権に関係ない水平思考であったとする。

 松前 健は「日本古代の太陽信仰と大和国家」で、「こうした農・漁民の信仰であった太陽神の祭祀と伝承が、やがて彼らを統轄・支配する豪族の手によって独占され、この特権世襲の由来譚として、日の御子の伝承および神婚譚が生まれる。対馬県直や尾張連らのような天照神・天照御魂神をまつる氏族などもそうであったろうし、また系統は違うが、記紀に、新羅の王子アメノヒボコの裔と伝え、その妻アカルヒメとの神婚譚を伝える、但馬の出石族などもそうした「日の御子族」の一つであった。<中略>皇室なども、もともとそうした「日の御子族」の一つであって、それが後に全国を統一・支配する第王家となっていったのであろう。」とする。

 大林太良は中山太郎が指摘した説「我が国では古く貴族や豪族の墓地を選定するとき、朝日の直刺すところ、夕日の日照るところを条件としたと考えた。」を引き合いに出しその説を支持している。

 これらの説を要約すると、皇室が太陽神である天照大神を皇祖神として体系づける以前に、すでに朝日夕日の太陽信仰が農漁民や杣人の間に広く存在したが、その後、貴族・豪族によって独占され、日の御子の伝承および神婚譚を生み出し、朝日の直刺すところ夕日の日照るところとして選ばれた場所は墓地等の聖地となったということである。これらのことは全国に太陽祭祀や朝日地名に関連した古墳が多数存在することからも推測できる。(例:朝日山古墳群(福井・愛知)、朝日古墳群(宮城)、朝日塚古墳(滋賀)、朝日ノ岡古墳(千葉)、日拝塚古墳(福岡)、朝日天神山古墳群(大分)、朝日ゴウロ古墳(長野)等)。

新津八幡山古墳と日置郷 式内社 旦飯野(あさいいの)神社

f:id:koshi-miyake:20220209135241j:plain

f:id:koshi-miyake:20220215112619j:plain f:id:koshi-miyake:20220215112728j:plain

 新潟県にあっても古い時代の古墳が太陽信仰と関連していると確認できるところがある。新津の八幡山古墳である。新津周辺は和名類聚抄の日置郷に比定されている(日本地理志料)が、八幡山古墳に隣接する地区に朝日地名があり、ここに式内社の旦飯野(あさいいの)神社が存在する。「あさいい」は「あさひ」の転訛で日置=旦飯=朝日と見事に連動する。奈良文化財研究所の和名類聚抄をベースにした古代地名検索システムでは全国に15箇所の日置郷がヒットするが、その多くは神事や祭祀にかかわる部民である日置部(ひおきべ)が管掌していたとされる。日置部は松前健の言う太陽祭祀を独占した貴族豪族に当たる。また井上辰雄は「日置部の研究」で日置氏の性格を下記のようにあげている。

f:id:koshi-miyake:20220215112824j:plain

旦飯野神社
  • 砂鉄を産する地域では,鉄生産に従事した可能性がある。
  • 宝剣に関わりをもつ。
  • 日神と結びつきを有する。太陽神が隠る岩戸や宮殿に奉仕して,冬至の祭である鎮魂祭に関わる大宮売神を杷る。
  • 大和政権の地方統治に大きな役割を果たす。その場合,支配形態には服属地に配者の斎く神社を祀るという方式がとられる 。
  • 常世田や天上界への通路一迎神の聖地に位置する。等々

 これらの特徴は鹿角製鉄剣を出土した八幡山遺跡や大規模な製鉄遺跡である金津丘陵製鉄遺跡を有する日置郷に存在する旦飯野神社の関係にもよく当てはまる。

f:id:koshi-miyake:20220209135325j:plain

太陽信仰と朝日地名、白・赤・黒・青の色彩地名の関係

 他には、県内では上越市の黒田古墳群のすぐ隣にやはり朝日地区が存在する。地名の起こりは当地青木の大峰山小倉峰山頂にあったとされる朝日寺に因むとされる(角川地名辞典)。しかしこの朝日寺の存在自体が太陽信仰と無関係でつけられた訳が無い。当地に既存の信仰として太陽信仰があったからこそ修験道が吸収して朝日寺と名付けたのだろう。

 ここに登場する朝日と青木の関係は来迎寺の朝日百塚にも登場する(TOP写真参照)。他にも市内には夕日長者がある釜沢町のすぐ隣に青木町があり、青木長者伝説が存在する。朝日夕日長者の伝説には「朝日さし夕日輝くその下に漆千杯、黄金万杯」との埋蔵金を示す口承歌謡が付随するケースが多いが、釜沢町の夕日長者伝説にも同様付随している。この口承歌謡のバリエーションで「朝日輝く青木の下に黄金千杯朱千杯」と言う落城に伴う埋蔵金伝説歌謡があり、朝日と青木の関係が語られている。『青』の民俗学」で筒井功氏が指摘するように、この場合の青木は植物のアオキではなく、奥津城と同じ青城で墓所を示すものと思われる。

 また、古くは日本書紀にみえる伊勢の豪族「朝日郎(あさけのいらつこ)」が雄略天皇の命をうけた物部氏の軍勢を伊賀の「青墓」で迎え打ったとされる故事からも、太陽信仰「朝日」と色彩名青の墓所「青木」の関係は明確に関連していると考えられる。太陽信仰と白・赤・黒・青の色彩名の関係は、以前のブログ「古志の冥界を司る「青の系譜」青木長者伝説」でも考えている。

 

 

続く