古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

三宅神社の関連社

『小丹生神社』

 新潟県見附市熱田町字宮ノ浦541 

御祭神 波多武日子命 天美明須佐之男命 越後國古志郡 小丹生神社 式内論社 

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 下記に掲載した社伝によれば、三宅神社の伝承と同じく波多武日子命 天美明命 の二神が越の川東、金倉山に鎮祭したとの記述がある。長岡市見附市の約30kmも離れた神社で同様な伝承が存在するのは極めて特異な事の様に思う。以前、小丹生神社の宮司さんにお会いした時にその事を直接訪ねた事がある。その時のお話では、江戸時代に三宅神社の神官「三宅連当虎」がもたらしたものというようなお話だった。当虎は当時中越全体の式内社を束ねる実力者だったから、式内社認可競争の過程で両社間の整合性をとったのかもしれない。


 これだけオリジナルな伝承を有する神社である訳だから「式内 小丹生神社」の最有力社である事は間違いないように思われる。しかし、その内容は三宅神社の伝承とは異なっている所もかなり多い。  一番の相違点は、三宅神社では「天日桙命」となっている同伴神が、「漢の高祖の裔 王仁公」となっている点である。昭和13年長岡市及近郊神社調稿で星山氏も指摘しているが、波多武日子命と王仁公では年代が合わないということが言われてきている。記紀では王仁公は応神期の渡来となっているが波多武日子命はその五代前の崇神〜垂仁期の人物に比定されているからだ。


 また、式内社としての「小丹生神社」の社号と、「波多武日子命」「天美明命」や『論語』十巻と『千字文』一巻をもたらした「王仁公」の祭神を結びつける論拠が見当たらないのは大きな謎である。この社号と祭神が一致しないという矛盾は、見附の小丹生神社と和島の宇奈具志神社が「式内小丹生神社」をめぐって主張しあう原因にもなっている。


 「丹生」は朱の原料となる鉱物である「辰砂」「水銀朱」の和名で水銀の出るところは日本各地に「丹生都比売」を祭る神社が存在している。神社仏閣の朱彩や印鑑の朱肉など日本の至る所に「朱」文化は存在している。日本の朱への信仰の始まりは古く、日本の神道以前に「朱」とヒスイの「翠」に対する信仰があったことは間違いない。

 

 和島の宇奈具志神社の旧社地「出田明神」では微量の水銀が検出されたとしてその根拠の一つにされていると記憶しているが、見附の小丹生神社でも祭神を社号に関連づけようとして、「小丹生命」や「埴安神」を祭神とした時期があったようだ。しかし現在は社伝のように、波多武日子命 天美明命 須佐之男命している。  須佐之男命はおそらく熱田の地に遷座してからの勧請だと思われるが、社号の「小丹生」とは何の関係も無い「波多武日子命」「天美明命」が御由緒に出て来る理由はなんだろうか。あるいは式内社認可の過程で信憑性を得るために「波多武日子命」「天美明命」を混入して整合性をとったのだろうか。


 ところが、最近の加藤 謙吉氏や古代史研究家の大和岩雄氏の研究で「丹生」と「秦氏」は密接な関係があるということが解明された。「波多武日子命」と「秦氏」の関係は「アメノヒボコ祭祀」で類似性が非常に強いのは前述してあるが、その秦氏は丹生をはじめとする水銀の精錬・鍍金の技術を持って渡来し丹生産の主役となったというのである。その辺の研究をふまえて高野山のHPでは次のように解説している。

 

  高野山の歴史(1)開創以前 古代、高野山の麓、丹生川流域の高野・天野一帯には「丹生(にう)氏」と呼ばれる人々が住んでいました。 「丹生氏」は彩色に使われた朱の原料となる「丹(辰砂)」に関わった人々です。中央構造線沿いなど、水銀鉱床があった場所に住み、丹の産出を行なっていました。今でも全国各地に「丹生」という地名や「丹生神社」が残っています。 丹を製錬して水銀を作る技術を持つ秦氏が大陸から渡ってきてからは、丹の生産の主役は秦氏となり、丹生氏は産出を司る神、丹生都比売神(にうつひめのかみ・通称「丹生明神」)を祭祀する神官となったと考えられています。 弘法大師空海は若い頃、高野山の辺りで山岳修行をしていましたが、この丹生氏と何らかの関係を持っていたようです。唐に私費留学をすることができた背景にも、丹生氏の援助があった可能性が指摘されています。


 「波多武日子命」に朝鮮半島往来説話とアメノヒボコ祭祀が伴っていることから「秦氏」との関連は間違いないと思われるが、「秦氏」と「丹生」は諸氏の研究から近年完全に関連づけられているのである。これは記紀をはじめとする日本の史書には記載されていないことなので、「小丹生神社」の社伝が式内社認可の過程で「波多武日子命」「天美明命」の二神を混入したとするのは不可能と思われる。この祭神の二神は当初から伝承されてきた祭神名で有る可能性が高い。


 もう一つ、現在の祭神には上げられていないが、社伝に多く登場する「王仁公」も「丹生」に関連する可能性を持っている。『論語』十巻と『千字文』一巻をもたらした「王仁公」と「丹生」は今のところ直接的な関連性は見当たらないが、「王仁公」を「和爾氏」と比定すると「丹生」との関連は俄然明白になる。


 古事記では「和邇吉師」と書かれていて、朝鮮系海洋族とされる中央豪族の「和爾氏」との関連も充分考えられる。「和爾氏」の本拠は奈良県天理市和爾町で式内大社の「和爾坐赤坂比古神社」とされている。社号の「赤坂」は「赤土」=「丹」とされ「和爾」が「倭丹」であるとする説も根強い。  また、古事記に「大毘古命に、丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を副(そ)えて遣わし、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)を討たせた。この時丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いはいべ)(神を祭る清浄な瓶)を居(す)ゑて、出陣した。」  日本書紀に大彦と和珥臣の遠祖、彦国葺(ヒコクニブク)とを遣わして、埴安彦を討たせた。この時忌瓮(いはいべ)を和珥の武鋤坂(たけすきのさか)の上に鎮座(す)えた。」 とあるように「波多武日子命」の父、大彦命と年代で一致し矛盾も少ない。また和爾氏の丹生祭祀の関連も明白である。社伝ではむしろ「王仁公」の記述の比率が高く、「鸞」王の神系が分れたことや古志連と名乗ったことなど神系を記述していることから、主祭神名は「王仁公」(和邇)であったのではないだろうか。


 小丹生神社の社伝に登場する「王仁公」と中央豪族の「和爾氏」が同一がどうかはまだわからないが、波多武日子命の「波多」が「秦」と同じように、古代日本においては同音異字の場合その区別が曖昧だったのではないだろうか。すなわち古代から半島と日本を往復した「波多」と「和爾」は、後に渡来した「秦」と「王仁」と厳格に区別されていたのではないかということである。初期の「波多」と「和爾」は倭人を中心にしたコスモポリタンで、後期の「秦」と「王仁」は純粋な渡来人ではないかというのが私の推論である。


 社号と関係ないと考えられて、ともすれば誤りと見なされていた祭神を、そのまま大切に伝えて来た小丹生神社の社伝は、「王仁」の年代批判もあったりで大変な時期もあったと思うが、現代の祭神研究からすれば「丹生」信仰と密接な関係がある損得勘定抜きのたいへん貴重なものであると思う。今後祭神の解明さらに進めば、「丹生」〜「秦氏」〜「アメノヒボコ」〜「目の神」がシームレスに繋がる全国でも珍しい地域になる可能性がある。更なる研究の発展を地元の人に期待したい。

 

小丹生神社御由緒

 新潟県神社寺院仏堂明細帳 
明治16(1883)年 記載の御由緒書 村社 小丹生神社 
祭神 小丹生命  合祀 波多武日子命 天美明命 須佐之男命 健南方命 天照皇大神 三官霊神合祭す

 

 由緒(不明点が有るので概要)  
 当社小丹生神社(の)由来者(は)元祖人皇八代孝元天皇の帝子大彦命の男(宮)波多武日子命(が)新羅国の帝王天日鉾命の女(宮)天美明命を伴い北越の国を賜りてたまいて都より至り賜う。この時漢ノ高皇帝の後「鸞」の王子、未文ノ宿禰の孫王仁公も越の元司なる波多武日子命、天之美明命の二柱に従い来り賜う。その後二柱の命は古志の北を賜り、賀摩原ヶ崎(蒲原崎か)猿橋の辺近及び領して三官ノ原に築城する。姓を小丹生三官と改めてその古跡を三官野と唱える。(その後)波多武日子命、天之美明命の二柱は越の川東金蔵山の三都嶺に鎮まり賜う。後にまた、熱田ヶ岡に宮柱大敷立て賜う。玉橋より三津ノ鳥居も千代の古より来るなり。姓を古志連と改めこの時館を蒲原の久栗山藤崎ヶ岡に移し暫く居す。姓を藤崎と改めて王仁公の男宮一王神は宮内ヶ岡の「都野神社」に鎮まり一王神と称す故に「鸞」王の神系は両姓に分るなり、その後藤崎ヶ岡より元の古跡の三官野に戻る。

 

  その後当社神系千秋万春重ねたれば弥々疲弊す。天長の頃より代々の治乱に城館社頭皆々逆郤(内輪争い)し、承平の乱に相馬の敵と戦う折り敗戦し、三官城を退く神系神職今に続くなり。錐然と延喜年中、醍醐天皇の勅に依り式に載る。小丹生神社の證旧たる神系は正しく継ぎ来るなり。然るを持って 延喜五年十二月、天皇宣坐して当社小丹生命を官幣を奉賜したまえる故はよく神書にも見えたり、往古より当社命号を小丹生命と称し社号は三官霊神と唱え須佐之男大神を合わせ祭るなり。中古天長の乱の後に今の所へ奉遷坐なり。此の所、往古熱田ヵ岡と唱える故に小丹生神社熱田明神と奉唱するなり。 
 口碑にいわく当社往古よりの宝刀、今を去る二百年前に旧社家家運一遍の際、男(子)なく他より養子いたし家乏しく都□仁離別に相成り。蒲原の郡、三条駅槻田神社の旧社家藤崎某に婚する時、当社古来の書類及八(俣?)の宝刀に至るまで持参致し、槻田神社も度重なる火災に書類消失致し、ただいまは右の(前述の)宝刀のみ残れることは、よく衆人の口碑する所なり。この宝刀たるや旧八俣ノ刀は八振にしてその一振りを小丹生神社へ奉納する。これは槻田神社に有るものがこれ也とよく衆人口碑するところ故古々に記す。  寛文、享保、宝暦年中 公儀 御条目を被り 仰ぎ出て次に諸国の一同神社を御改め、式内式外本社末社をお尋ねのみぎりは小丹生神社記を請書とし主役所へ上申するなり。

 

 その後また寛政九年神祇道御取締として出役人、宮川権頭という人に小丹生神社熱田明神と書記して上申仕えるなり。右寛文、享保、宝暦、天明、寛政の諸書はそのことを書き添える。  御本所御役所の記録に御書留ある御座、猿橋の辺に至る迄一同当社の末孫にてその産土神氏神、鎮守と今に申し伝わるや故に熱田の総鎮守とよく人の唱えるところである。右当社の旧記古證書は古きなる故にその要約を記す。本文長文にして虫食いとなるが故に後年その時々の謂れを記する。

 

 神官 祠掌 古志郡大田村 岩本肇

耶麻神社(一宮神社)

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 温故の栞によれば、「古志郡褥抜荘村松村に耶麻神社あり同地の古称を耶麻と伝えしに依るなるべし。境内最と神古し勝地なり、牧野家記録中寛永11年戊年領分名講調書の中に村松村耶麻神社祭神は波多武日子命(私に伝 命は同郡妙見村式内三宅神社の祭神也 ※注:妙見村三宅神社祭神は正確には大彦の命)の一の王子と言い伝え今は一の宮大明神と申す伝々とあり。」と記載されている。

また、文明十五年上杉房定検地帳に
 石坂八方寄進
  一宮大宮司分 1,940刈
 同
  二宮大宮司分 1,495刈
 同 一宮八乙女惣て十四人
  宇都宮山口大宮司 960刈
とある。 

 星山貢氏は「古志の村松 円融寺記」の中で、『喜連川判鑑正平二十三年、上杉憲顕が此寺後に居た新田義宗を攻むる条に「千葉宇都宮結城小山を差向らる」とある。これは有名な宇都宮公綱の一派であろうから征戦に功あった宇都宮の一族山口氏をここの宮司に任じて今に至ったと言う様な経過であろうか。宇都宮は本貫、山口はその人の姓と考える。』と考察している。三宅神社の「宇都宮」の神号も越後守護になった宇都宮氏に頼り被官となったことに起因してるのではないかと推測する。永正・大永年間に三宅大炊助政家が府内に内緒で在地領主「長尾房景」に御扶助を願い出ると言う記録も見えるから、中世の一時期に宇都宮氏に頼っていた可能性が強い。

 また、帝京大学教授の小林昌二氏は「日本古代のシナノとコシ」の中で古代民部制の観点から

1.「コシノシリヘの山部は、七世紀半ばの磐舟柵設置の際に柵戸とLてシナノから徒民された事実があるが、それとは別の『倭名頼家抄』に見える越後国古志郡夜麻郷は、磐舟柵戸に先立つシナノからの山部集団を源流とした欽明・敬遠期の徒民と考えられるのではないか」

2.「なお『倭名類衆抄』古志郡条の夜麻郷の存在が興味深い。古志郡郡家が想定される八幡林官衙遺跡出土の八世紀中頃とされる木簡から山部直廣万呂や、墨書土器の「山直」(九世紀中〜末)が知られることなどから郷名の氏族との関連および八世紀半ばの存在を認めてよい。」

3.「さて以上のコシノシリヘ地域おける山部の分布では、磐船郡のみならず、古志郡や沼垂郡に広がることが確認できた。磐船郡の山家郷は『日本書紀』の記事により、また古志郡の夜麻郷は、信濃川中流域の長岡市周辺と見られることから、これもシナノからと考えらる」

と述べているが、古志郡夜麻郷に比定される地域の「耶麻神社」の大宮司姓が「山口」なのは興味深い一致である。

宇都宮山口大宮司が、宇都宮公綱の一族なのかそれとも古代民部制に連なる「山部」の末裔なのか、現在はその後裔と伝える家系が途絶しているようなので確認は難しい。

 また、見附市史で指摘する「高志国造古志郡本拠説」でのウイークポイント古墳の存在が確認出来ないという点について、
 一宮神社の縁起に「今、村松の北部に二十余戸の氏子に斎かれて鎮守となって居り祭神は玉櫛比売命 合祀 天香児山命といふ。神体は乞食に盗まれたと。神主を池山平兵衛といふ。少しわきに引き屋敷といふのがある、一の宮はもとそこにあったのが、一夜にして山を生じ社殿も飛び移った跡にと。今まわり2m前後の杉樹に囲まれてゐる。」星山貢 「古志の村松 円融寺記」および地元の伝承がある。一夜で山が生じたという部分は西都原古墳群の鬼が一夜で造りあげたとする「鬼の窟古墳」の伝承にも通じるし、箸墓の伝承「昼は人が作り夜は神が作った」という伝承にも通じるところがある様に思う。写真でもわかる様に、社地は小高い丘の上にあり形状はやや楕円であるが、丘状はいわゆる洗面器を伏せた形で古い塚の形態を思わせる。
 氏族制度の祖廟としての神社であるならば、その氏族の被葬地が確定しなけらばならないが、現在のところ夜麻郷に比定される当地では古墳は確認されていない。少ない可能性の中で波多武日子命の一の王子の神社と伝える「耶麻神社(一宮神社)」の社地がその最有力の候補だと思える。

 

二宮神社(現在社殿喪失)

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↑横枕地内にある比定地 グーグルマップには弐の宮の地名がのこる

 二宮神社の比定地は2カ所ある。
「温古の栞」では、江戸時代の伝承として長岡市横枕地内の二宮神社の伝承を掲載している。長岡藩士村松村の定正院参拝の帰途、二宮神社境内で神翁と出会い茶碗を授けられるという説話である。現在定正院下の横枕地内に武の宮という字名が確認出来るが、弐の宮の転記だと思われる。社殿は確認出来ない。
また、「古志の村松 円融寺記」には十日町地内とあり、現 渡沢町の入口に二宮神社跡と呼ばれるところが存在する。付近では古代〜中世にかけての土器も採取出来る。
 伝承からは横枕地内が有力と思われるが、両方とも社殿を失い詳しいところはわからない。

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↑渡沢地内にある比定地 江戸時代の絵図には二の宮の地名が記載されている。

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現地では古代の土師器から中世陶器まで遺物が拾える。付近では珍しい鉱滓も採取した