古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

長岡-小千谷東山『行者の道』

東山地区の行者の道

 長岡の東山から小千谷市の東山にかけて、中世「行者の道」を想定したのは昭和44年発行の小千谷市史の編纂委員で当時新潟大学人文学部教授の井上鋭夫氏である。以降、山古志村史・長岡市史双書にも引用されている。小千谷市史から該当する箇所を下記に引用する。

 第二章 山岳信仰の発展より

朝日と山寺
 牛ヶ島の万覚院(真言宗醍醐派)は、今も修験の法印の堂舎である。ここで信濃川を渡り、木津(川港)に上がると、「花立沢」という地名がある。元禄のころまで対岸「花立」の船岡観音の堂であった木津の三仏堂(地蔵・観音・不動)には、地蔵も含まれるが、この地蔵がもとあった「地蔵沢」を左に、「七ツ倉」を右に見て、この花立沢を登ると八海山(三〇四米)に達する。つまり魚沼三名山の八海山から桜峰に来る行道は、ここを経由して遠く出羽三山にまで延びているのである。
 この八海山の大滝から、薬師山ー鳥屋ー蘭木(宮の脇)ー中子ー不動林ー雨乞山(三九一米)ー塩谷ー大日山(三八四米)ー十二ノワキー十二ノ沢に至る線が延びている。また薬師山から若宮山(三三三米)に至り、滝ノ上ー黒倉ー首沢ー滝ノ沢ー金倉山に至り、蔵王堂(長岡市)に連なる行道も考えられ、東山油田の起原をなす草水津(石油)が関係していたと見られる。

 八海山からは尾根続きに城山(二六〇・四米)に延び、若宮山からは朝日山(三三九米)
へと連なり、この二つの山が金倉山とともに、信濃川東岸の山岳信仰の中心をなしていた。朝日山は大日山とともに、千谷から見た場合、まさに太陽のさしのぼる山であった。朝日部落や寺沢部落はこれを背後にもつ宮や寺院の門前町にほかならない。朝日山を西方へ下ると信濃川に達するところが横渡と浦柄である。ともに三仏生と千谷への渡し場であり、特に浦柄には七滝に石窟があり、不動尊が祀られている。
 浦柄の北の白岩は修験者が上陸する目印であり、ここから石坂山・千足山・星峠を経て金倉山に至る道は、現在も長岡市小千谷市の境界線となっている。また白岩北方の妙見と星峠を結ぶ線は金倉山につながるが、この金倉山(五八一・四米)こそは北斗妙見を記る修験者の信仰対象であった。星峠の十二社、小栗山の白山社・不動社・八幡社はこの山の崇拝を基礎に成立したものであり、小栗山の福生寺の焼地蔵は、黒倉の地蔵面に祀られていたものであった。
 八海山から標高二九八・五米の山寺山と城山をつなぐ線は最も大切な修験の要地であった。山寺の名の示すように、ここには巨大な寺院が建立され、堂塔伽藍がそびえ立っていた。伝説によれば、天平宝字四年(七六〇)越の大徳泰澄が薭生に建てた五智院がそれであるとされる。泰澄大師は越前国麻主津の人で、三論・法相・密教を修め、神仙となって山々峰々を踏破し、白山の禅頂をきわめたという。しかるに白山は天台宗延暦寺の末であるから、加賀の白山宮から能生白山ー 国上山ー弥彦山ー新潟白山社と日本海を北上し、ついで信濃川をさかのぼって中越地方にひろまった白山信仰の流れに、五智院は包摂されたものと言える。
 五智院というのは、直江津五智国分寺、五頭山の五智院などと同様に、大日・釈迦・阿弥陀・薬師・宝生の仏教界最高の五如来を記るもので、中頚城郡板倉町の山寺の五尊と等しく、天台系に属するものであった。おそらく山寺の本坊が五智院であったのであろう。それが後に真言宗となったのは、加賀白山宮と同じく、中世における密教化と加持祈祷の盛行によるものと考えられる。

<引用終わり>

 井上氏は小千谷市史の中でこの東山地区と川井地区を中心に、中世宗教史から見た歴史の側面をとてもダイナミックに解き明かして見せている。井上氏はこの地区にある山中の「行者の道」を実際に踏査して遺構や宗教施設を確認した訳ではなく、長年の研究過程で蓄積した「伝説に語らせる」という手法で歴史の一面をあぶり出したのだ。

 それは民俗学の手法と同じく現在ある伝説や伝承、地名や山名、寺社や宗教施設の配置、川や山の地形特性などを他地域と比較して歴史の真実を導き出すという手法で、「一見、荒唐無稽な伝承の中に、実は我々日本人の過去の貴重な一頁が隠せれていることを見抜き、伝説に語り出させた井上氏の史眼は実にするどい」と歴史学者の石井 進も「山の民、川の民」の序で評価している。

 中世古文書が10通もあれば望外の喜びと言われる市町村で文献史料だけで歴史を解明するのは困難であり、石井氏が言うように文献史料はもちろん伝承・習俗・考古遺物を史料とし、発掘・実測や地理学的方法を用いて調査しなければ歴史の全体像が見えてこないのは当然だろう。

 「伝説に語らせる」という井上氏の手法はそれだけで完全な手法ということではないが、それでも今まで誰も言及してこなかった東山地区と川井地区の中世密教霊場としての歴史的性格を解明したのは見事と言わざるを得ない。私もこの天才歴史学者を見習っていきたい。

千足山は洗足山

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 さて本題に入る前に、この「伝説に語らせる」という手法の成果が簡単に確認できるので紹介したい。

 上の地図は明治期の地理院の地図だが、赤で囲った山名・地名は井上氏が上記小千谷市史で提起した『行者の道』関連地名である。ここに「千足山」と言う山があるが井上氏は直接には触れていない。これが何を意味するか地元にも伝説は伝わっていないし字義上でもまったく理解できない。一説には信濃川を航行する船からの目印となる山との説も聞くが、これは(千)=(船)と言う音からの連想だろう。しかし、千足山は目印となるような単独で突出した山ではないし、信濃川からではそのピークが背景の金倉山塊に紛れて区別できないはずだ。私はこの説には納得しがたい。

 しかし、(「山の民・川の民」井上鋭夫 筑摩書房)の序文にはこう書かれている。

「中世人の生活や心を示す遺物・遺跡は無数と言って良いくらいである。われわれは虚心にその声ない声を聞き、見えざる面影を見いださなければならない。 試しにどの地方でも良いから、地図を広げて見ていただきたい。燕・鴻の巣・鷹の巣・鳥越などの鳥に関する地名、白岩・赤倉・洗足岩・不動岩など岩石に関する地名が出てくるであろう。今日では発見しにくいような深山の岩石が地名にまでなって、人々に周知されたのはなぜであろうか。それは中世社会に大きな役割を果たした修験者が、入山の修行をするときの、登山コースの目標であったために他ならない。」

 この文章の白岩と洗足岩に注目してもらいたい。上の地図には白岩(中越地震妙見崩落現場付近)と千足(洗足)山がちゃんと載っているではないか。他に黒倉山は現在ではあまり認知されていないが、明治期の地図には載っており、小千谷市小栗山にある七堂伽藍寺院があったと伝える伝説とともに存在する岩山である。この白岩ー洗足岩のコンビは新潟県の間瀬にもあり、現在観光地となっていてやはり往古の修験霊場として考えらている。(千足)は(洗足)の転化で修験者が本尊を巡る前に足を洗い清めたことに由来するといい、序文の説くように入山の修行をするときの登山コースの目標と考えるのが一番妥当だろう。

 また千足山は地元の資料には千束山とも書かれていて、同じく東京都大田区の洗足池の起源をウィキペディアでは

古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られる。由来としては仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田であって、千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。

として千束の方が洗足より古いとしている。千足山は豊富な湧水と山腹には多少の耕作地があるが、寺領の免田のような広い耕作面積がある訳ではない。何れにしても「仏教用語の千僧供料」や「修験者の登山コースの目標」と言われるような仏教関連で派生した山名であることは間違いないだろう。これは井上説から導き出される山名由来の具体的な一例だが、同様に従来は意味不明な伝説や東山に多出する製鉄関連地名を解明する貴重な手がかりを与えてくれる。

 次回から長岡-小千谷東山『行者の道』の起源や範囲、その後の歴史的経過などを伝説の分析や踏査結果などから少し考えて見たい。