古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

長岡-小千谷東山『行者の道』の行道を考える

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行者の道 行道推定図

長岡-小千谷東山『行者の道』の領域

 上の画像は国土地理院の赤色立体地図に、前回引用した井上氏説の行者の道に関連する地名山名を加筆したものである。赤色立体地図は尾根筋が白く抜けてはっきりとたどることが出来る。行道は尾根筋に沿って形成され、井上氏によればその道筋はそのまま近現代の行政界となっている場合が多いとされる。この山塊の尾根筋を辿ると長岡-小千谷にまたがる東山『行者の道』全容が見えてくる。すなわち、南は川口・竜光付近を入峰口とし、北は栃尾楡原の旧蔵王神社付近を一応の終着点とする南北約30kmの行程である。

 他に地図上にルートは書き入れてないが、権現山の下倉城から小松倉の大日堂を経て種苧原の四方拝山を中継地とするルート、鋸山から八方台、比礼、耳取を経て小丹生神社へ至るルートも見えてくる。

 注目して欲しいのは、同じ東山丘陵にありながら竜光ー種苧原間の芋川と栃尾楡原ー種苧原間の西谷川の東側は『行者の道』に関係する山名地名が激減するということである。私が個人的に選択記載した訳ではなくそもそも山名地名自体が少ないのである。逆にいえば山古志ー小千谷東山周辺や栃尾五百山・大平山周辺の修験関連地名が異常に多い過ぎるのである。

 この差異の始まりはおそらく古代の行政界である古志郡と魚沼郡の境界に遡るのではないかと考えている。南北30kmとは少し長すぎる気もするが、平安時代の川口から栃尾に掛けて古志郡夜麻郷に起因する文化的な共同体があったのではないだろうか。その根拠となる伝承や地名も豊富に存在する。一つは南荷頃と北荷頃の地名の符号。二つ目は大平山の酒呑童子の建石伝説と小千谷市小栗山の黒倉山伝説の関連性等が挙げられるが、次回『行者の道』の起源として詳しく考えてみたい。

行道は当時のハイウェイ

 行者の道は尾根上に沿って造られたとされているが、なぜ尾根に造られてのだろうか。普通に考えれば尾根筋には山々のピークがあり険しい山頂はそのまま行場となったと考えるのは簡単だ。しかし、私はもう一つの理由を考えている。

 例えば南北朝期には新田義貞上野国生品神社での挙兵に際し、栃尾森上の南部神社の天狗山伏(修験者)が越後国中に触れ回り、妻有郷の新田支族2000騎がわずか一晩で越後から上野国へ移動し支援に駆けつけた(新潟県の合戦−小千谷十日町・魚沼編−)とされるが、この驚異的な伝達スピードは尾根走りと呼ばれる修験者の道・行者の道がもたらしたものではないか。当時の平場は信濃川の氾濫原で堤防もなく街道はまだ十分整備されておらず、峠や渡河地点が多数あり尾根突端部を迂回するための長大な行程が多数あったことは容易に想像できる。

 上図を見てもらえばわかるが、魚沼市の芋川の河口の竜光付近の尾根から、越後一の修験道場があったと伝えられる栃尾楡原岩野の旧蔵王権現までほとんど渡河なしで東山丘陵の尾根筋に一直線で行ける。行場としての修験の目的の他に実利的最短距離で移動が可能だったのである。井上氏は山の境界に作られた中世の行者の道は山の民にとって天下の公道だったとも言っている。

ブナの植生がもたらした行道

 もう一つ、最短で移動が可能になった理由に植生の問題がある。現在の行道推定地はブッシュが繁茂し藪漕ぎしなければ歩行困難であるが、それは近代の燃料獲得のためにボエ山として計画的に伐採されことで多様な雑木が育つ里山の植生に変化しためである。しかし、行者の道が形成された頃の越後は原生種であるブナ林がまだ広く繁茂していたと考えられる。現在でも猿倉山や鋸山の尾根筋にはブナ林が少し残っているが、ブナの林床部は下生えが生えず明るく見通しがよく、危険な動物や蛇も事前に避けることが出来る。草鞋だけの粗末な装備でもブナの落ち葉に覆われる地面は快適に歩行可能である。現在の雑木のブッシュではいかな行者でも歩行は不可能だろう。

 この植生による文化論は、ひと昔前に照葉樹林文化がもてはやされたことがあり一種差別論的な風潮すら生まれたが、照葉樹林文化を主張する西日本でさえ、修験道が隆盛する吉野山系や英彦山山系、大山山系の行道は標高が高くブナ等の落葉広葉樹林が主要な植生となる。反対に照葉樹の林は葉の厚さが厚いため光が届かず林床部がとても暗い。県内の日本海沿いの照葉樹林を訪れて見ればわかるが薄気味悪くてとても歩く気にならない。修験が日本の基層文化なら文字通りブナ林が日本の文化を産んだことになる。

行道のウィークポイントは渡河地点

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行者の道 渡河推定ポイント

 尾根筋に沿ってブナの原生林を駆け抜ける行者の道は、人目につかずしかも移動スピードが早い。当時の人が天狗の仕業と思っても至極当然である。山塊の尾根筋は予想外に長く繋がっていて、かなりの遠距離を渡河なしで移動できるが、それでも山塊と山塊の間では渡河が必要となってくる。渡河地点では移動スピードも落ちるし人目につく、いわば天狗のウィークポイントとなる。それを補うために渡河地点では防御施設として意図的に多数の寺社や祭場・山城が作られたようだ。

 南北朝期の密教系山岳寺院は防御性を持ち軍事拠点と変わらぬ機能を持っているという(加藤理文  南北朝時代の山城)。歩いてみればわかるが当地でも薬師や羽黒等修験に関係する山の頂上にはお堂が存在していて、切岸や土塁・土橋、空堀等の防御遺構を例外なく見ることができる。その延長上に渡河地点に防御施設として寺院や山城が築かれたのだろう。
 例えば魚野川を挟んで魚沼丘陵から東山丘陵に渡る地点には下倉山城が築かれている。ここは権現山の山名があることから起源は修験の行道に由来するのだろうが、魚沼丘陵から東山丘陵に尾根筋でつながる重要な結束点だ。また信濃川を挟んで三仏生から修験由来の白岩に渡る妙見・浦柄には初期に南朝であった石坂氏の居城する会水城が築かれている。反対に栃尾の荷頃城は北朝の芳賀伊賀守の居城とされることから、南朝密教集団の西谷川の渡河を阻止するために作られた可能性がある。
 また金倉山から大峰山に渡る太田川の渡河地点には密教の古刹円融寺が造られ、その上部には南朝の拠点である村松城が築かれている。朝日山から金倉山へ渡る渡河地点には地域の景勝地「女滝」があって修験に関係が深い「白山神社」が祀られている。「女滝」のすぐ上には現在は祭祀を廃止されたが別のお堂が現存している。

 女人禁制の修験道で「女滝」の名称はそぐわない。おそらく語源は「目嶽」で沖縄の「御嶽」と起源を同じにする祭祀の聖地なのではないかと想像する。また「目」は太陽信仰を表している可能性が高い。三宅神社の祭神「天之日矛命」は太陽神であるが目の神と呼ばれ、周辺地域には県内では珍しい目の神道祖神が点在する。周辺の山名「朝日山」「大日山」「ひ生山(日生山)」等は全て太陽信仰を表す山名であるが、当地は強力な太陽信仰の聖地だったようだ。いずれにせよ「朝日山」の女滝は修験と神道の祭祀にとって重要な地点であることは確かである。
 次回は『行者の道』の起源を伝説や太陽信仰・製鉄の視点から考えてみたい。