古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

三宅神社関連資料1  文献年表

762年(天平宝字6年) 石山寺所関係文書

 
3月13日 越後国仕丁丈部得足・三宅人領、造石山院所から逃走する (柏崎市史資料集 古代中世篇)



784年(延暦3年続日本紀

 蒲原郡の人三宅連笠雄麻呂、稲10万束を貯えて飢者に食を与え、道橋を修造したことにより、従八位上を授けられる




808年(大同3年)大同類聚方

 「古志薬、三宅神社伝方、元大彦命伝剤、三宅連等家方也 、
                大熱二便色赤 口喉瞳、平生
腹痛、鼻下爛、眼中水立、玄妙剤也」
注釈 偽書
 江戸時代、国学の振興とともに和方医学が興隆すると、同書は和方家の聖典として考えられるようになった。ところが後になって当時流布していた諸本に対して後世の偽書ではないかとする意見が現れるようになった。和方家の中でも権田直助らは真書説、佐藤方定らは偽書説を唱えて論争となったが、近代以後も富士川游らが佐藤説を支持し、今日では現存する諸本は全て偽書(写本)で真本は散逸したものとするのが通説とされている。
槇佐知子による全訳精解本があり、槇はこの業績によって1986年に菊池寛賞を受賞している。



815年(弘仁6年) 新撰姓氏録 

        摂津国 皇別   三宅人  大彦命男波多武日子命之後也
 
       右京 諸蕃 新羅 三宅連   新羅国王子天日桙命之後也  
        ※河内国 皇別   難波   難波忌寸同祖 大彦命孫波多武彦命之後也
 
注釈 多武日子命
    新撰姓氏録には名前が有りますが、記紀には記載がない。式内社で多武日子命を祭神としているところは、他に奈良県山辺山添村中峯山の
    「六柱神社」に合祀されているもの、古志郡内の式内論社「小丹生神社」のみで本拠は新潟だと言われている。

 



927年(延長5年) 延喜式神名帳 

 古志郡 6座並小 三宅神社二座 桐原石部神社 都野神社 小丹生神社 宇奈具志神社



平安時代(年代不詳) 箕輪遺跡出土 1号木簡  

            牒 三宅史御所 應□□□(出来か) □并□(米か)
            「□(時か)不過到来於駅家村勿□□(怠運か)×
新潟県埋文センター解説文
 
下の写真の木簡は、三宅史御所(みやけのふひとおんところ)にあてた物品請求の文書です。ある人物または役所(不明)が「三宅史御所」(人名+御所は組織・機関を示す)に対し、物品(不明)を「駅家村」へ運ぶように命令しています。
 三宅史御所では物品を木簡とともに駅家村へ運ぶ者に持たせ、駅家村で物品の受け渡しが行なわれた後、役目を終えた木簡が廃棄されたと考えられます。
 つまり木簡が出土した箕輪遺跡は「駅家村」と考えられ、この近くに越後国10駅の一つである「三嶋駅」が存在したと推測されます。

 

 

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当時の記事、クリックで拡大


史(ふひと
大和朝廷の官職名で、のちに姓(かばね)となった。語源は「書人(ふみひと)」。史姓69氏のほとんどが帰化系氏族で、文筆や計算の技能をもって朝廷に仕えた。朝廷の機構の拡充された5世紀後半の雄略(ゆうりゃく)朝以降、外交や財政の分野で活躍し、6世紀なかばごろより官職名から姓(かばね)へ転化した。その後、大宝律令(たいほうりつりょう)の編纂(へんさん)にも田辺史(たなべのふひと)が参加して功績があった。757年(天平宝字1)に藤原不比等(ふひと)の諱(いみな)(実名)を避けて登(びと)に改められたが、770年(宝亀1)にもとに復した。
[ 日本大百科全書小学館)]

新撰姓氏録に  河内国 諸蕃 漢 三宅史 史 山田宿祢同祖 忠意之後也   が見える。

御所(おんところ・ごしょ)
人物の称号としての御所は皇族、大臣、将軍、その直系または傍系の子弟・子孫のことを指す場合もある。特に大臣家以上の公卿の子弟に対しては御室御所と敬称する習慣もあり、御所号は皇室のみならず、公家・武家の高位者にも広く用いられた。さらには、皇族・摂家の子弟が門跡となった寺院にも御所号が贈られることもあった。(Wiki)

三宅神社社伝に「神名久羅の御所・御所平・御所塚」 が見える。
 当遺跡からは他に「小池御(所)」名の木簡が出土している。当時は御所名がかなり使われていた可能性がある。
 これについては、中 大輔氏の「日本古代の駅家と地域社会ー越後国三嶋駅の事例を中心に」(古代交通研究第13号)
で言及がある。それによれば、

国郡行政に関連する「人名+所」の事例は知られていないが、造東大寺司・東大寺領庄園の事例をふまえれば、国郡行政においても在地の有力層の私経営に依存しつつ管理・運営される「人名+所」が置かれていた可能性は認めうるであろう。」

と述べている。三宅神社の社伝には「姓を神名久羅の御所と改め」とあるが、国郡行政に関連する「人名+所」の事例が他所では事例がない中で、江戸時代の由来書に姓として「御所」名が登場するのを偶然だけでは済まされないと考える。地元で神社研究するもの立場としては当然ながら、「神名久羅の御所」名はその過去の記憶の残滓と考えたい。



1483〜87年(文明15〜19年) 越後検地帳「上杉古文書」(越後守護上杉房定)

 本田弐万七千三百弐十八束苅 石坂 三宅出雲守 与 林孫次郎立合
 同八方寄進 一宮八人女 惣之十四人分 宇都宮山口大宮司



1504〜27年(永正・大永年間) 上杉古文書?(栃尾市史)

 三宅大炊助政家 府内に内緒で在地領主 長尾房景 に御扶助を願い出る




1573年(天正5年) 上杉謙信 手注 将士帳  

 末13人目に 三宅備後守長盛 が見える
 



1597年(慶長2年) 古志郡しと貫庄六日市村御検地帳 (太閤検地

 大宮大夫 が見える



1646年(正保3年) 神祇宝典  
          ◯古志郡  三宅神社二座
                三宅氏祖神、天之日鉾命、同妻阿加流姫神 也、
                事見 于但馬国出石社之下

http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103263627-001.pdf

尾張藩初代藩主の徳川義直により編纂されたもの。全国の主要な神社を国郡別に列挙し、その祭神等について、六国史をはじめとする諸書を引用し考証している。寛政2年(1790年)、9代藩主宗睦の命により、義直自撰の書の校合事業が始められ、『神祇宝典』の校合は河村秀根が、事業半ばで秀根が死去した後は稲葉通邦が引き継ぎ、寛政7年に校了。本館所蔵資料は、この校合本の1つであるとされる。
神祇宝典では
祭神は天之日鉾命、同妻阿加流姫とされ、出石神社の記録の下にその事が見えると書いてある。



1665年(寛文5年) 「当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫」

吉田神道奉行よりお尋ねがあり、書き写しを下妻右京、鈴木左京へ書記して相達す。



1721年(享保5年) 「当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫」 幕府寺社奉行へ書き上げ納める。



1773年(安永2年) 「当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫」 社家の記載を付記される。



1780年(安永9年) 魚沼神社神主「五十嵐珍昭」が古志郡三宅神社神主「星野大内蔵」を証人として上洛、京都吉田神道家に対し、古来よりの弥彦大明神の社号のさらに式内魚沼神社の社号を加えることを願いでる。(日本の神々8 魚沼神社)



1797年(寛政9年) 二月 古志郡六日市村の三宅神社神主「星野当虎」が主唱し、古志・魚沼・刈羽・三島四郡の式内治定神主16名が連署して神文を取り決める。(日本の神々8 黒姫神社)



1838年天保9年) 九 月 六日市村の(星野)大蔵という社人が「手鍬責め」の占いで盗人を見つけるよう種苧原村村役人に依頼される。(山古志村史)