古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

古代古志郡の石を祀る人々

平成二年の調査で「沼垂城」の文字が書かれた木簡が出土し、一躍全国的な注目を集めた長岡市和島の八幡林遺跡では、他に「石屋」(いわや)あるいは「石」の文字が書かれた墨書土器が奈良から平安時代にかけて長期にしかも大量に出土している。中には郡の長官を表す官職名「石屋大領」、城柵の存在を伺わせる「石屋木」(いわやのき)、石屋(いわや)に所在した役所の建物を示唆する「石屋殿」の墨書土器も出土している。

 「石」「石屋」を名のる古志郡の「大領」が中央から派遣された国司とは違い地方豪族が世襲したとされる「郡司」であることにも注目したい。

 この時代はまだ祭祀と政治は混然一体とされていた時代であり、律令体制の施行細則である「延喜式」に神名帳が記載され、国郡の行政区画と各地域の神社(式内社)が一体となって書かれている。日常的な祭祀でも当時の遺跡から行政文書的な木簡などと共に人形・斎串等の祭祀用具が出土するのも、政祭が混然となっていた当時の風習の表れで八幡林遺跡の場合も同じである。

 こうした時代背景から「石」あるいは「石屋」の文字も、単なる律令制の中央集権的な施設名称としてだけでなく、「大領」の文字が示すようにこの地域独特の祭祀やその背後にある習俗が関連していると考える。石屋の文字の意味は職能ではなくその読み方のように窟(いわや)を表すものではないか。「窟」は古神道の磐座祭祀の中核を指すものだという私の考えはこのブログにずっと書いてきている。

 この地には大和政権が進出する以前に奴奈川姫に代表される母系集団の王国「コシ」が地母神信仰として磐座を祀る風習が存在したと思われるが、三宅神社の神倉山「鎮窟」、鵜川神社の黒姫山「姫ヶ倉」、御嶋石部神社の八石山「婆岩」、出雲崎石井神社の「石穴」、妻戸神社の「口あけ石」など式内社関連の「窟」伝承はその反映であり、中越山間部に集中する「ちんからりん」酒呑童子の「篭り穴」茨木童子の「鬼の穴」等の「石穴」伝説はその記憶だろうと考えている。

 石に関する信仰の研究は柳田國男『石神問答』をあげるまでもなく、民俗学では昔から盛んだ。諏訪神社を中心に中部地域に広がる「ミシャグジ」信仰は代表的な石神だが、出雲神である建御名方命に追われる洩矢神と同一視されている。諏訪にある古部族研究会の北村皆雄は「ミシャグジ信仰のルーツを縄文中期の地母神信仰に求め、石棒の中にその信仰的胚珠をもっていた」(Wikipedia)としているのは、古志郡内にもある石窟信仰が地母神信仰につながると考える私にも近い。面白いのは新潟県は出雲・越の夫婦神の子である建御名方命を祀る諏訪神社の分社数が全国一多い所いであるのに対して、対立した洩矢神であるミシャグジ信仰があるのをあまり聞かないことだ。国津神の代表である出雲の大国主命は本来父を天津神素戔嗚命とするハーフである(日本書紀)。力比べや征服は本来大陸遊牧民由来の父系制文化で縄文由来の母系制文化にはそぐわない。大国主命が多くの国を統合したとされるのは建御名方命洩矢神と争ったのと同様に大陸由来の武力を背景にした統合だろう。出雲が大陸に近い地域的特性によるものだ。

 しかし大国主命国津神の代表とされるのは祭祀のやり方を従来の縄文由来の母系制文化のものを取り入れて統治をしたからではないだろうか。その証拠に出雲風土記には石神の記述が多く登場するし、古事記では建御名方命は「千引の石」を手先で差し上げながら登場する。新潟県内の神社でも祭神が大国主命に関連するところは石神や窟が存在するところが非常に多い。前出の石穴がある出雲崎町石井神社の祭神は大国主命あるいはその御子の御井とされる。

 そして古代古志郡の石に関する祭祀で決定的なことは式内社の「石部(イソベ)神社」の集中である。在野の古代史系譜の研究家 宝賀寿男氏は「石部神とは何か」で県内の御嶋石部神社と桐原石部神社を取り上げ、部民制と物部氏との関連性から考察している。全国16の式内石部神社の中で2社が隣接する郡内(三島郡平安時代に古志郡から分離)に集中するのは特別な理由があるからだろう。ましてや「石屋」の文字を出土した八幡林遺跡と桐原石部神社は同じ旧和島村内に存在する。これが関係しないわけがない。石部神社の祭神は県内でもそうだが、ほとんどが大国主命の御子(古事記)で石辺公の祖・天日方命とされている。天日方奇日方命は三輪氏・賀茂氏の祖でもあり、日本書紀の別伝では三宅神社の祭神の一人である天之日矛命を尋問したとされる大友主命は三輪氏の祖である。ここに大国主命天日方奇日方命天之日矛命の関連が浮かび上がってくる。大国主命は別名「伊和大神」といい播磨国風土記では天之日矛命と争っている。播磨国一宮の伊和神社の祭神は大国主命の別名「大己貴神」で伊和の語源を神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとする。しかし大国主命にことごとく付随する石の伝承や信仰を考えれば伊和=岩であると考えるのが自然である。岩は信仰の対象であるとともに後には金属生み出す生産資源である。

 国津神の真の主宰者は大山津見神ではないかと考えているが、大国主命は磐座崇拝や母系制など旧来の風習を維持しながら、大和政権に先行して日本を穏やかに統一した国津神の象徴であることには違いない。

 これまで考えてきた伝説・伝承ばかりでなく、県内には実際に磐座祭祀に関連すると考えられる遺物が出土している岩陰・洞窟遺跡がある。弥生・平安の遺物が共伴した八木神社の「八木鼻岩陰遺跡」は私が考える立派な磐座祭祀だし、縄文草創期遺跡で有名な「室谷洞窟遺跡」や「黒姫洞窟遺跡」でも弥生・平安の遺物が共伴している。岩陰・洞窟遺跡ではその古さだけに捉われがちだで弥生・平安の遺物が共伴する事実は誰も目を向けない。弥生・平安はすでに洞窟で生活する必要がなくなっている時代だ。仮に弥生・平安時代の遺物が偶然通りかかって利用した狩猟用のキャンプ場としてのものなら、古墳期や奈良時代、中近世などの他の年代の遺物が一様に出土しない理由が説明できない。

 岩陰・洞窟遺跡弥生・平安の遺物が共伴する理由は狩猟ではなくて祭祀だと考えている。弥生と平安時代地母神信仰である磐座祭祀のルネサンス運動があったのではないか。祭祀というと大陸由来の厳密な手順と呪具を伴う父系文化の祭祀を考えがちだが、日本古来の母系文化の祭祀は論理性や手順を伴わないただ「篭る」だけのシンプルな「祭り」である。しかしこれが日本の「祭」の原点であることは柳田國男も指摘している。

 弥生期は以前にも書いたが山部の民が海部の民に先行して道教を受容した可能性がある。その反映が海幸彦・山幸彦の伝承である。道教が母系社会を理想としていたことは自明だし、そのことも書いた。遺伝子解析でも弥生が二系統に別れるのではないかという根拠に斎藤成也・国立遺伝学研究所教授の主張がある。すなわち出雲・東北等の日本列島周辺部に住む人々はその距離に関係なく遺伝的に近く、関東・東海・近畿等の中央軸に住む人々とは遺伝的に異なり、大陸の人々からの遺伝的影響が薄いという事実である。この分析を元にして日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あったと主張している。
 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦い百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」としている。

 第1波はここでは年代が違うので対象とならないが、第2波、第3波は年代が縄文晩期と弥生時代と非常に近く弥生の二重構造を説明する根拠と考えられる。この第2波が現在の出雲・東北地域を形成する遺伝子で、第3波が関東・東海・近畿等の中央軸に住む人を形成する遺伝子ではないだろうか。斎藤氏は第2波の主体を「海の民」としているが、そうすると出雲・東北地域を形成する遺伝子との整合性が取れないような気がする。東北地域を代表する弥生文化に弥生後期と言われる天王山式土器があるが、この土器を使用する人々は山岳部の険しいところを志向する等の変わったところがあると研究者から聞いたことがある。山部の民と出雲・東北地域を形成する遺伝子と天王山式土器にはかなり強い相関関係があるように思える。

 平安時代の遺物が共伴する理由は、やはり役行者を開祖とする修験道弘法大師密教の地方への普及の影響が大きと思う。修験道密教が険しい場所や窟・巨石を信仰対象としていることは明らかで、山野を跋渉するこれらの宗教が日本古来の窟に「篭る」祭祀に着目し取り入れていったことが大きな原因だろう。逆にいえば仏教が日本古来の祭祀を取り入れ現地化していった過程に平安時代が当てはまったということだ。この時代はそういった大きなうねりに中で八幡林遺跡で出土したような人形・斎串等の用具を使う大陸由来の祭祀と日本古来の信仰が復興し共存していたのだと思う。

 縄文時代地母神信仰が弥生時代に大陸の文化に触れ、古神道を形成する磐座信仰を生み、さらに大陸の父系社会文化である先祖崇拝や儒教に影響されて、現在の宮中行事神道祭祀を形成していったものではないだろうか。