三宅神社の社家
三宅神社二座 当社旧記古證
附記
一、大彦命妙見村鎮守 三宅神社宇都之宮大明神 社守 三明梶元 和今稗生村仁落山伏止奈利観請院止号 惣鎮守仁宇都之宮於観請須
一、天日鉾命中片村鎮守三宅神社宇都之宮大明神 社守 的場崎 平岡乃治部 和今村仁居百姓止成居須 三明 平岡 乃呼姓神滝谷連乃分姓仁天 神滝谷七寵与利 郡内万姓分留奈利
安永2年(1773年)
上記由来書によると安永2年(1773年)当時の社家は
六日市村 三宅大連當虎(星野大内蔵)
中潟村 平岡 治部
妙見村 三明 梶元
▲旧星野家の住宅跡。六日市「三宅神社」参道の階段の左手にある。右は江戸時代の三宅神社周辺地図。宇都宮大明神「星野丹波」とある。
現在、星野家、平岡家は存続している。稗生村の三明姓は小林姓となって観請院を祭祀している。
星野家は社家の中核的存在だったが、中越地震以降星野家は家屋崩壊のため移転し現地にはいない。
中世文書に登場する星野家の「大蔵」、平岡家の「治部」は律令時代の官位制の名称にある。他に、六日市城主の名前に「高橋刑部」の名前が見え、中世に律令時代の官制を名乗る風潮(ほとんど意味を失っていたようであるが)があったようである。
唯一の三明姓は妙見にあったが隣の小千谷市稗生に退転した。現在観請院を護持しているのは小林姓である。現在妙見神社近くにある中世塚の「王塚」はこの三明姓の墓所であろう。「梶元」の名称は唯一官位制名称ではないが、祭神の製鉄神的性格から「かじもと」の名称は非常に興味深い。
三宅大連當虎の墓は現六日市三宅神社の裏山にある。寛文5年に社伝を吉田神道家へ提出した人物とは年代が離れすぎているため別人と思われる。一番の活動期は安永年間と思われるが、古志郡内及び魚沼・刈羽・三島四郡の式内治定神主16名を取りまとめ神文を取り決めるなど精力的な活動をした中越地区の神職の巨人であることは間違いない。他に魚沼神社の証人として上洛したり、見附市の熱田神社の古證古記の記載にも尽力したらしい。
その後、明治16年の長岡市の神社明細帳には三宅神社の社掌として「星野当次」の名前が掲載されている。その後神職を辞し現在に至っているようだ。