八岐大蛇伝説と耳取遺跡(耳取遺跡展第5弾)
8/23日 みつけ伝承館で開催中の耳取遺跡展第5弾を再訪しました。
国史跡答申の理由
1.縄文中期〜後期〜晩期に渡る国内有数の大遺跡
(3遺跡の集落が一つの遺跡に存在するのは北陸において希有、全国的にも貴重)
2.縄文後期の集落は北陸最大
3.中期遺跡出土の翡翠大珠は県内最大
今秋、答申が認可される予定で県の縄文遺跡としては31年ぶり
耳取遺跡は耳取山にある縄文の大遺跡である。付近には旧石器、弥生、古墳〜古代の遺跡が密集する古代の要衝の地である。古志 三宅神社と同じ波多武日子命を祭神とする式内論社「小丹生神社」が立地し、製鉄地名である刈谷田川が流れ八岐大蛇伝説が存在するのは前回に書いたとおりである。
耳取とはなにか?
当地に伝わる伝説では、討ち取った八岐大蛇の「耳」を埋めたとされる耳取塚があるので耳取という。通説では、信濃川がつくる沖積平野に耳のように突出する形で形成された低山地を古代人が「ミミ」と称し、そこを迂回する形で「通り」が形成されたことから「突出した地形=ミミ+通り」で「耳通り」が「耳取り」になったという説が有力である。
式内五十嵐神社のある下田には名勝「八木鼻」があり、五十嵐川に突出する形で山地がせり出し断崖を形成している。「八木鼻」にも祭祀関連の遺跡が存在し、古くからの要衝の地として存在したことは明白である。
「ミミ」や「ハナ」が地形名称として古くから突出する地形に使われてきたとすることはうなずける。ただし、話はそれだけでは終わらない。沖積平野に突出する形で形成された地形は、防御や交易、周囲からの展望の関係から集落や祭祀を行う場所としては最適であるのは多くの事例から明らかである。耳取遺跡の縄文遺跡や周辺の多数存在する弥生遺跡はそのことを如実に表している。
問題は、沖積平野に突出する形で形成された地形は、他にも多数あるのになぜ見附の小丹生神社周辺の低山地にだけ「ミミ」名称が付けられたかである。単にら突出する地形に「ミミ」や「ハナ」がつけられたとするならば、山地が沖積平野にせり出す長岡の東山沿いには耳崎や耳岡、耳山等の「ミミ」地名だらけになるのは容易に推測できる。
女滝(メ=タキ)のある三宅神社周辺から八木鼻のある五十嵐神社周辺にかけて、40kmはあるが「ミミ」のつく地名は当地だけである。このことは「ミミ」の名称が「地形」理由だけでないこと強く示唆する。おそらく、もう一つの理由は「人=部族」だろうと推測する。「ミミ」地形に住居する部族が有力だったので、それを呼称する必要が強くあったために地名としてミミがついたのだろう。そうでないただの突出地形は特に呼称する必要もなかったので名称がつかなかったのではないか。
地名が先か、部族名が先かは解らないが「ミミ」や「メ」や「ハナ」をトーテムとする部族が古くから存在するのは明らかだ。特に「ミミ」については多くの方が研究をしている。
投馬国出雲説ならびに欠史時代初期出雲系説
(「ミミ」の分布から見えるもの)
八岐大蛇は「ミミ」族の守護神
弥生時代に部族固有の守護神とトーテムを持つ都市国家が存在したことは通説になりつつあると思うが、三内丸山遺跡や見附の「耳取遺跡」の存在でその萌芽が縄文時代に遡る可能性も十分考えられる。県内最大で国内でも有数の翡翠の大珠を生み出した「耳取遺跡」には縄文時代から有力な大部族が居いて、弥生時代には「ミミ」をトーテムとした地方勢力として存在していたとしても何の不思議でもない。
この古志のミミ族の守護神は八岐大蛇に仮託された「刈谷田川」だった。「刈谷田川」は季節ごとに洪水を起こし田畑を破壊し人的被害も与える恐ろしい神がったが、一方で「耳取山」の周囲を取り巻くように流れ、沖合には長岡城奪還戦で有名な広大な湿地「八丁沖」を形成する集落を防衛する天然の防御施設として恵みを与えてくれた。
他族が容易に近づけない防御立地を与えてくれ、なおかつ広大で肥沃な水田に最適な低湿地を与えてくれる「刈谷田川」は、開墾や灌漑技術が無くもっぱら稲作は氾濫原頼りの弥生時代にあってははまさに「神」のような存在だったのだろう。
「生贄」を要求した「八岐大蛇」は見返りとして多くの恵みを与えてくれたのではないだろうか。そうでなければ当地で永続して居住することなく荒廃して行ったはずである。神話では7人の娘が「生贄」として毎年差し出されてきているが、「八岐大蛇」が害しか与えないのであれば早々に見切りを付けて村を捨てたはずである。立地は古代集落形成の最大要因だからである。
稲田宮主須賀之八耳神の別名を持つ奇稲田媛の父、足名椎神はミミ部族の長として「八岐大蛇」を守護神とした共生の関係にあったのだろう。素戔男尊の「八岐大蛇」退治神話は築堤による氾濫河川の制御物語であると同時に、新技術を持つ外来の天孫系の神々が足名椎神などの国神系の都市国家の守護神を制圧し併合して行ったことの暗喩ではないだろうか。
事実、八重垣を造り「妻篭め」にした須我神社の伝承は「略奪婚」以外の何ものでもないし、足名椎神は素戔男尊に奇稲田媛との婚姻を要求されたが最初ははっきりと断っている。また日本書紀の別伝では「八岐大蛇」退治できたらとの条件付きで婚姻を承知している。地域の守護神である「八岐大蛇」に勝てる訳が無いと踏んだからであろう。
「ミミ」と「クシ」の呪術合戦
また、素戔男尊がミミ族の稲田媛を櫛に変えて身につけたということは、ミミ族の呪術アイテムを「クシ」の呪術アイテムで打ち破って籠絡したことの例えではないか。八耳神と称された稲田媛の父は、耳が八つもあるように見えるほどの豊富な耳飾りを付けていたのだろう。耳飾りは富のシンボルであり豊富な耳飾りは戦わずして相手を屈服できる魔法のアイテムだったに違いない。
一方「クシ」も古くから呪術アイテムとしては最強のものだった。特に女性においては魂の宿る頭部の髪を整えるに「クシ」はなくてわならないものだった。女性が美しく清潔でありたいと思うのは今も昔も同じで、そのための道具である「クシ」は女性とっては命と同じように大切な物だっただろう。素戔男尊は外来の最新の技術で作った精巧で美しい「クシ」を差し出すことによって、稲田媛の歓心を引き強敵の娘を攻略することに成功した。古くさい耳輪を捨て、美しい櫛を選んだ稲田媛はその後奇稲田媛と呼ばれるようになった。人の心を自由に操るのは今も昔も魔術に違いない。人を櫛に変えたというのはその例えだろうと思う。
幼い時から日本神話にふれるにつけて足名椎神と素戔男尊の邂逅に奇妙な緊張感を感じていたのは私だけであろうか。実子を嫁入りさせるのは戦国時代では当たり前の政略結婚だったが、弥生時代でも同様に降伏儀礼だったに違いない。その比喩的説話が「八岐大蛇」伝説にも盛り込まれていると解釈している。
このように「八岐大蛇」伝説には治水・灌漑技術の仮託と天孫系が国神系を平定して行く過程が反映されていると考えるが、古志郡にある耳取山にある伝説は、縄文から続く地祇系の「ミミ」族の一派が耳取山に居住し、そこに天孫系の部族が侵入し治水と製鉄の新技術で制圧して行ったことの記憶が、在地の「八岐大蛇」伝説として語り継がれてきたのではないか。
式内論社「小丹生神社」は素戔男尊や波多武日子命等の天孫系(渡来系)の祭神を中心にしている。また社伝ではその後裔として「高志」氏を記載している。(当ブログ『小丹生神社』参照)現地のミミ族を平定した築堤の技術を持つ部族の一つは「高志」氏では無いかと推測するが、今後の研究課題としたい。