古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

古志の八岐大蛇伝説(高志之八俣遠呂知)

2015/8 新潟日報 地域版

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日本書紀」では「八岐大蛇」、「古事記」では「八俣遠呂智」と書かれる。特に「古事記」では「高志之八俣遠呂知」と書かれて、地域名の「高志」が強調されている。

 

 その「古志」地域の中心にある式内社「小丹生神社」の鎮座する地域に「八俣遠呂智」伝説が今も伝わる。詳細は記事を読んでいただければ解るが、特異なのは「八俣遠呂智」に耳があったと言うこと。

 

 「耳取山」は国の史跡指定も受けるほどの大規模な遺跡が存在する歴史の舞台で、谷川健一氏も指摘するように「ミミ」「メ」は古代の尊称にも使われるほどの重要な呪術アイテムだ。まして単音のメや単音を重ねただけの「ミミ」などの身体言語の起源は大和言葉の中でも一番古い。
 「八俣遠呂智」に耳があったかどうかはさておいて、古代において最重要な呪術アイテムを奪い取り去ったということの意味は、部族間の征服を意味することは間違いない。ちなみに、日本書紀の別伝一書1.2ではそれぞれ、奇稲田媛の父または母の名が稲田宮主須賀之八神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)である。

 

 この伝説について直接宮司の藤崎さんにお伺いしたことがあった。「八岐大蛇」の主題は「大蛇」に例えられる「暴れ川」を築堤の技術によって制御したことのたとえ話だと言うこと。これは藤崎さんのオリジナルの説ではないが同感である。

 

 背中に木が生える「八岐大蛇」の姿は、土石流そのもの、弥生時代に築堤の技術を持たない田んぼが定期的に訪れる雨期の洪水で破壊されるのは恐怖以外の何者でもない。暴れ川を鎮めるのは昔から「人身御供」と相場が決まっている。これが「八岐大蛇」の主題である。

 

 「耳取山」周辺は弥生遺跡も集中し、何より暴れ川で有名な「刈谷田川」が存在する。また「刈」=「カル」は製鉄関連用語として有名である。また、「八岐大蛇」伝説の本家と自称するように、現在でも伝承地周辺には「稲田」姓や「須佐」姓が多く存在する。

 

 また、「古志」の地域名称も見附本家説を支援する。新潟県の「古志郡」の起源は古く8世紀の大宝律令時代に遡るという。ところが、越国造の本拠を自認する福井県周辺には古代から続く「古志」「高志」の地域名称が存在しないのである。わずかに福井市には「高志」の地区名と名称が残っているとされるが、古代から連綿と続く国郡里制に登場するような地域名は確認できない。

 

 藤崎宮司が伝説を他に取られたと嘆くように、関西中心の地域差別的な発想は確かに存在する。すなわち、ヤマト政権に直接結びつくような伝承や越国造などの支配機構が、関西から遠く離れた遠隔地に存在するはずが無いという地域主義的な発想である。

 

 確かに近年まで、弥生期から古墳期にかけての県内の研究は遅れていたが、近畿の古墳の副葬品と遜色の無い胎内市の「城の山古墳」が確認されたり、弥生期の環濠集落や高地性集落がいくつも確認されたりして、従来の認識が誤りだったことが明らかになってきている。

 

 新しい知見が明らかになりつつある現代だからこそ、遠隔地・僻地だからという理由だけで、地域の伝承や伝説を疎かにしたり無視したりする姿勢は止めにしたい。たとえ「八岐大蛇」の直接の舞台が見附周辺の「古志」でなかったとしても、出雲に移住して古志の地域名を残した部族や見附周辺の「八岐大蛇」伝説の担い手である越後の古志族が出雲と交流してきたとしてもおかしなことではないだろう。伝承は部族共通の比喩的体験の蓄積であるから、その伝承を持つ一派がここにいたとしても不思議ではないだろう。