古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

三宅神社の祭神について

◯波多武日子命・天美明命 ◯天日桙命 ◯大彦命

 

六日市町 三宅神社:波多武日子命・天美明命の二座  
中潟町  三宅神社:天日桙命  


妙見町  三宅神社:大彦命 

 

三宅神社の祭神が記載された最古の記録は、
 
「神祇宝典」1646年(正保3年)の          
◯古志郡  三宅神社二座                 
 三宅氏祖神、天之日鉾命、同妻阿加流姫神 也、 
事見 于但馬国出石社之下  

 

だと思われる。これは尾張藩初代藩主の徳川義直により編纂されたもので、全国の主要な神社を国郡別に列挙し、その祭神等について、六国史をはじめとする諸書を引用し考証したものとある。  三宅神社の祭神を考証するにあたりどのような諸書を引用したのか定かでないが、古事記に三宅ノ連等之祖名多遅摩毛理云々、姓氏録に三宅ノ連ハ新羅ノ国ノ王子天日桙命之後也と見えてることから、三宅氏祖神として六国史等の記録を中心に天之日鉾命、同妻阿加流姫神を比定したのではないだろうか。  現在の出石神社の社伝には上記の内容を伺わせる記述は見当たらない。古志郡の三宅神社の祭神を考証したというより、三宅連の祖神を文献で考証した意味合いが強いと思われる。  

 

 次に古い記載は三宅大連当虎が書いた当社社伝の額面「当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫」で、内容は寛文五年(1665年)に吉田神道家に提出した物と同じ内容という安永2年(1773年)に付記された額面である。 
 それによると   
 六日市 三宅神社:波多武日子命、天美明命の二座  
 中潟町 三宅神社:天日桙命  
 妙見町 三宅神社:大彦命  

 

 これ以降、江戸時代において県内には、『越後名寄』宝暦六年(1756)、『北越風土記』 文化三年(1805)、『越後野志』 文化十二年(1815)等に三宅神社の記載があるがいずれも名物・名所を綴った紀行文形式の伝聞解説が中心であり、本格的な研究資料として参考にするのは内容が薄いように思うのであえて記載しなかった。氏族制度の中ので氏神様であり祖霊として信仰されて来た由来が記載された額面「当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫」が奇跡的に現存する訳だから、神社研究の中心的な資料となるのは当然だと思う。ついで重要と思われるのは社伝以外の当地の伝承があるが、これは「温古の栞」「古志郡六校会 郷教育資料」が残っているので参考になる。尚、史料編にもあるように現地で平安〜中世に渡って三宅族の存在は確認出来る。  谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、史学や考古学の助けは必須であるが「古い地名、伝承、氏族、神社この四つを組み合わせることで、文献記録だけではたどれない古代に遡行することがで来ると考える」と述べている。まったく同感である。

 

 ◯波多武日子命  

 

記紀には記載が見えないが、新撰姓氏録 815年(弘仁6年) に   

 

摂津国 皇別   三宅人  大彦命男波多武日子命之後也  
河内国 皇別   難波   難波忌寸同祖 大彦命孫波多武彦命之後也  

 

とある。大彦命の(男)と(孫)と同じ姓氏録中でも表記系統が異なるが、大彦命の御子とする説が有力である。  

 

 大彦命の御子は建沼河別命、彦背立大稲腰命、比毛由比命、波多武日子命、得彦宿禰(姓氏録)         比古伊那許志別命、御間城姫、 (古事記)  

 

 

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他に姓氏録に  
河内国 皇別   難波忌寸   大彦命之後也  

 

阿倍氏遠祖大彦命磯城離宮御宇天皇御世。遣治蝦夷之時。至於兎田墨坂。忽聞嬰児啼泣。即認□獲棄嬰児。大彦命見而  大歓。即訪求乳母。得兎田弟原媛。便付嬰児曰。能養長安□功。於是成人奉送之。大彦命為子愛育。号曰得彦宿祢者。異説  並存  

 

大彦命蝦夷の征伐に派遣され、兎田の墨坂(奈良県宇陀町)を通りかかると、嬰児の泣き声が聞こえたので付近を探して  みると、一人の嬰児が棄てられていた。そこで大彦命は兎田の弟原媛を乳母として養育され、この児は立派に成長し、大彦  命のもとに送り届けられた。大彦命は自分の子として愛育し、得彦宿禰と名付けた。これが難波忌寸の祖である。  

 

と記載があり異説があるとして上記の説を附会している。これによれば難波忌寸は大彦の命の養子「得彦宿禰」の子孫で、同じく難波の祖である「大彦命孫波多武彦命」と同祖であることから、「得彦宿禰」と「波多武日子命」は同一人物かあるかあるいは「波多武日子命」は「得彦宿禰」の御子とする説もある。 

 

  また参考としては『国司文書 但馬故事記』に波多武彦命の記載があり、大彦の御子とされている。 『但馬故事記』は古史古伝に分類されているが、波多武彦命の系統を説明するのに矛盾は少ないと思われる。三宅首は大與比神社の社伝とこの『但馬故事記』に登場するが、社伝が伝える始祖「大屋彦命」より『但馬故事記』が伝える始祖「大與比命」とする方が遥かに三宅との関連が明確になる。

 

 『国司文書 但馬故事記』 
人皇三十三代推古天皇の十五年冬五月 
多遅麻国夜夫郡養耆(八木)村(現養父市八鹿町八木)に屯倉(ミヤケ)を設け、米粟を貯え、貧民救血の用に供す。 大彦命の男、波多武彦命の裔・大与比命を以って、これを管(ツカサド)らしむ。その後裔を三宅氏と云う。 三宅首(ミヤケノオビト)は其の祖・大与比命を三宅に祀り、大与比神社と申しまつる。(式内 大与比神社:養父市三宅)
別館 高田郷文庫 http://lib.sakezo.jp/archive/?p=14999

 

 ◯波多武日子命の本拠  

 

 各地にある式内論社で三宅神社以外で波多武日子を祭神としているところは、
 奈良県山辺山添村中峯山の式内論社「六柱神社」と古志郡内の式内論社「小丹生神社」 のみで本拠は新潟だと推測されている。
 ちなみに波多武日子命が活躍した時代から一世代後の、第11代垂仁天皇の皇子「五十日帯日子王」(いかたらしひこ-のみこ:日本書紀)の埋葬地は越後国蒲原郡の式内社「伊加良志神社」(現 新潟県三条市 五十嵐神社)とされ陵墓指定されている。大和朝廷の越への進出過程については別項「三宅神社の歴史的位置について 」で少し考察してみた。崇神朝から垂仁朝にかけて大和朝廷が越経営に積極的に乗り出したのは歴史的事実として認めても良い事柄だと思う。三宅神社の祭神「波多武日子命」もその流れの中で派遣されたものと考える。


 また新撰姓氏録で「三宅人」と「難波」の祖とされる波多武日子命は難波忌寸や吉志の祖でもあり、河内や摂津にその後裔の足跡を残している。しかし、現在の難波(大阪府)には波多武日子命をお祭りしている神社が無いのである。大阪府吹田市岸部には有名な『吉志部神社』があり、吉志族の祖廟として信仰を集めているが、現在の祭神は「天照大神」「豊受大神」である。神道の中核は祖霊信仰であるから本来は「波多武日子命」の痕跡が無ければならないはずである。その痕跡が見当たらない理由はその後裔氏族が本格的に本拠を変えたか、あるいは何らかの理由で意図的に消し去ったかであるが、現在のところその理由は確認できない。

 

 社伝から推測出来るのは難波の地をコンパスの軸として、半島南部の任那新羅から当時辺境だった越の地へ円弧を描いて派遣された辺境専門の開拓部隊の姿である。口碑でも三宅神社の「三宅」は日本書紀のいう半島に置かれた「官家」に起因しているという(岡南の郷土史)その辺の状況を説明するのに矛盾が少ない伝承だと思う。


 また「難波」の地は三宅神社のもう一方の祭神「天日桙命」(アメノヒボコノミコト)の活躍の場でもある。新羅から妻である阿加流比売命(アカルヒメ)を追いかけて「難波」までたどり着いたが、難波の海峡を支配する神が遮って上陸する事が出来ず、あきらめて但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したという。難波の地である大阪市東成区には阿加流比売命に関連する比売許曽神社が存在する。
 「難波」の地は、古代大和政権にあって海外と交流する至近の拠点だったのは間違いないだろう。 多武日子命の後裔とする難波忌寸や吉志がことごとく外来の勢力と関係があるのも当然の事である。(忌寸は八色の姓で渡来系氏族に与えられた姓とされる。吉志は新羅国の 官位17等の第14位にある)「三宅人」も「播磨国風土記」には「三宅人」氏が神前郡川辺里に山城の「きむれ」城を築いた百済人の子孫であると記されているという。 また伝えにもある「官家」との関係を考えれば、渡来系との関係を重要な要素として考えなけらならないだろう。

  そう考えると波多武日子命自体が渡来系ではないかという仮説が成立するし、主張も存在する。社伝でも「天日桙命」を伴って朝廷に仕えたとあるように、口承伝承では波多武日子命本人が大陸に渡り各地を遍歴平定後、その帰途に「天日桙命」をお連れしたと言われている。大陸各地を遍歴する様は「アメノヒボコ」命の後裔、田道間守のイメージを彷彿とさせる。もちろん、地元の伝承が長い間に記紀などの内容が混入したことも考えられるが、「波多」の尊称や前述の後裔の官位から考えても決して荒唐無稽な話ではない。
 大彦命の御子で海外をイメージする尊称がつけられているのは「波多武日子命」と「御間城姫命」の二神。両神とも「天日桙命」に関連する半島南部の任那新羅に由来する伝承を持つのは偶然ではないだろう。後の代に同じ「波多」の尊称を持つ武内宿禰の長男「波多八代宿禰」がやはり三韓征伐に従い、百済に遣わされていいることを考えれば「波多」の持つ意味の性格がはっきりすると思う。
 「波多武日子命」と「波多八代宿禰」は朝廷によって半島に派遣され、滞在が長期化し現地化したため「波多」の尊称を賜った勢力と考えるのが自然では無いだろうか。両者とも和名を持ち、朝廷から派遣されという伝承を持っているため渡来者説は考えにくい。

 

追加「波多武日子命と秦との関係について」

 

  記紀に記載が無い波多武日子命の事蹟を考察するにあたっては、名前の持つ意味と地元に伝わる伝承以外糸口は見つからないが、どちらにしても半島を活躍の場としていたことはかなり確率が高い事柄だし重要な要素である。その辺とのころは、また下の章で検討したい。

 

 

 ◯波多武日子命と秦氏アメノヒボコ命  
 新撰姓氏録大彦命の男宮と伝わる波多武日子命。一方、日本書記の応神天皇14年(283年)に秦 氏の祖である弓月君百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される。記紀によれば大彦命が北陸平定したのが崇神天皇10年、アメノヒボコの渡来が垂仁天皇3年とされる。波多武日子命が活躍した時代もおそらく同年代だと推定される。その後の4〜5代後に渡来したとされる秦氏と波多武日子命は年代が違うし、大彦命の御子とされるのだから何の関係も無いものと思われてきた。しかし、波多武日子命が渡来系の要素を多分に含んでいる事と諸氏の様々な研究の結果から、全く関係がないとは言い切れなくなっている。 
 日本書紀秦氏の祖である弓月君は「百済」系とされるが、秦氏関連の遺跡の瓦や広隆寺の仏像の性質から秦氏新羅系とする学説も根強い。
 日本書紀にも、新羅の妨害によって弓月君の民は加羅に3年留め置かれると言う記述があり、百済から直接渡来した訳ではなく、純粋な百済系とは言い切れない可能性を示唆している。
 中国史書によれば日本書紀に書かれた弓月君を始祖とする百済系の秦氏とは別に、新羅建国以前の辰韓に秦の始皇帝の労役から逃亡してきた中国の秦人がいたという。言語も百済となる馬韓とは別で、秦語が混じっていたと言う。その後辰韓の中心だった斯蘆国がそのまま新羅へと拡大しているのだから、当然新羅系の秦人がいてもおかしくない。
 秦氏の最大の特徴は、金属精錬部族としてテクノロジーの民である事だという。他にも養蚕、機織の技術をもたらしたといわれているが、重要なのは青銅の神と言われるアメノヒボコ命の金属神としての性格と全く合致することである。
 ここにおいて明治時代に慧眼の歴史民俗学者喜田貞吉」氏は、「日本民族史概説」(支那民族、とくに秦人の由来とその顛末)及び、「秦人孝緒論」のなかで銅鐸と秦人の関連を指摘し、アメノヒボコは神代に秦韓から渡来した秦人の最古の記憶だとする。戦後も平野邦雄氏は「帰化人と古代国家」の中で秦氏新羅系でアメノヒボコを始めとする新羅加羅人の伝承と秦氏の存在は完全に一致する。と述べている。
 つまり西日本においては秦氏アメノヒボコは完全にひとつのセットとなって存在しているのである。アメノヒボコが銅鐸と関連しているのは最近では谷川健一氏の指摘するとおりである。最近もアメノヒボコ命の本拠である「出石神社」のある出石町袴狭遺跡から秦氏の民部名を記す木簡が出土し両者の関係は完全に関連化されたと思われる。
出石町袴狭遺跡出土木簡  
 しかし、まだ疑問も残されている。日本書記に書かれた秦氏の渡来年代とアメノヒボコ命の渡来年代が合わない事である。それによってアメノヒボコ命の渡来年代を5世紀に繰り上げる説もある。
 それは前述もしているが、日本書紀にが新羅系の秦人に触れていないという事だけで、秦人系の渡来が無かった事にはならないだろうと考える。その辺は喜田貞吉の説に同感である。記紀播磨国風土記アメノヒボコ命の渡来した年代が著しく異なっているのは、アメノヒボコ命が単独神ではなく、アメノヒボコを祭祀する部族集団として複数回に渡って渡来したことの証しだろう。


 波多武日子命は秦族の渡来グループの第一波として、紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した秦韓、あるいは建国間もない新羅からの渡来者あるいは帰還者ではないだろうか。その時にセットとして語られる「アメノヒボコ命」を部族神として祭祀していたという事が三宅神社の社伝にも残り、西日本で確定的に語られる事実として残ったのだろう。
 社伝にいう「時に新羅王子天日桙命を倶い中津国に至り天皇に仕へ奉る」という記述は、上記の事を的確に説明している。 ※1

 

 新羅の建国は4世紀の中頃とされ大彦命の活躍した推定年代3〜4世紀とすると、新羅王子としての「アメノヒボコ命」と大彦命の御子としての「波多武日子命」の時代が無理なく重なる。青銅の神として知られる「アメノヒボコ命」や「秦氏」が5世紀では少し遅すぎるような気がする。※2 
 秦族およびアメノヒボコを祖神とする部族の渡来は、数波に渡るものだと仮定しても、「古志郡 三宅神社ニ座」の伝承は4世紀ころ新羅から渡来した秦族グループとアメノヒボコ集団を説明するのに驚くほど矛盾が少ない。そのうえ、秦族とアメノヒボコの関連を指摘がでて来たのは、社伝が書かれた遥か後の明治以降からである。文献史学や考古学の成果として関連が浮上するはるか以前に、一地方の式内社の伝承がその関連を明確にしているということは、驚くべき内容だと思うがどうだろう。秦族とアメノヒボコの関連は記紀はもちろん新撰姓氏録にも書かれていない内容である。

 

 また、秦人とアメノヒボコに共通するトーテムとしては、忘れてはならないものに「牛」がある。その痕跡として国内で数少ない「闘牛」の習俗が「神名倉山」の周辺で残るのも偶然ではないだろう。これはあとに項目を作って詳しく検討したい。  一方新潟県内では、式内社以外でも武日子命を祭神としているところも多く、県央部にある「五十嵐神社」周辺にも複数あるという。以下代表的な神社を紹介する。 

 

 ※1 「波多武日子命」は「波多八代宿禰」とともに和名を持ち、朝廷から派遣されという伝承を持っているので純粋な渡来者と言い切れるかどうかは正確にはわからない。波多の名称は年代順位に波多国造(「波多国造、瑞籬朝御世、天韓襲命依神教云、定賜国造」『国造本紀』=崇神朝、波多武日子命=垂仁朝、波多八代宿禰秦氏=応神朝。「秦」の表記は応神朝以降のもので、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦宿禰の項)によれば、渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されているという。(wikipedia)波多と秦は元々は別種に存在していた可能性もある。

 

 ※2(昭和11年の六日市地域の伝承を集めた「郷教育資料」では波多武日子命が連れ帰ったのは新羅の王子「天日桙命」の姫宮「天美明命」となっているが、古事記では妻であるアカルヒメを追って単身で渡来した事になっているので、記紀とのズレを後の時代になって補正したのかもしれない)

 

 

『小丹生神社』

 新潟県見附市熱田町字宮ノ浦541 

御祭神 波多武日子命 天美明須佐之男命 越後國古志郡 小丹生神社 式内論社 

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 下記に掲載した社伝によれば、三宅神社の伝承と同じく波多武日子命 天美明命 の二神が越の川東、金倉山に鎮祭したとの記述がある。長岡市見附市の約30kmも離れた神社で同様な伝承が存在するのは極めて特異な事の様に思う。以前、小丹生神社の宮司さんにお会いした時にその事を直接訪ねた事がある。その時のお話では、江戸時代に三宅神社の神官「三宅連当虎」がもたらしたものというようなお話だった。当虎は当時中越全体の式内社を束ねる実力者だったから、式内社認可競争の過程で両社間の整合性をとったのかもしれない。
 これだけオリジナルな伝承を有する神社である訳だから「式内 小丹生神社」の最有力社である事は間違いないように思われる。しかし、その内容は三宅神社の伝承とは異なっている所もかなり多い。  一番の相違点は、三宅神社では「天日桙命」となっている同伴神が、「漢の高祖の裔 王仁公」となっている点である。昭和13年長岡市及近郊神社調稿で星山氏も指摘しているが、波多武日子命と王仁公では年代が合わないということが言われてきている。記紀では王仁公は応神期の渡来となっているが波多武日子命はその五代前の崇神〜垂仁期の人物に比定されているからだ。
 また、式内社としての「小丹生神社」の社号と、「波多武日子命」「天美明命」や『論語』十巻と『千字文』一巻をもたらした「王仁公」の祭神を結びつける論拠が見当たらないのは大きな謎である。 丹生と秦氏、和爾氏  この社号と祭神が一致しないという矛盾は、見附の小丹生神社と和島の宇奈具志神社が「式内小丹生神社」をめぐって主張しあう原因にもなっている。
 「丹生」は朱の原料となる鉱物である「辰砂」「水銀朱」の和名で水銀の出るところは日本各地に「丹生都比売」を祭る神社が存在している。神社仏閣の朱彩や印鑑の朱肉など日本の至る所に「朱」文化は存在している。ちなみに新潟県では佐渡の赤石が現在でも尊重されている。日本の朱への信仰の始まりは古く、日本の神道以前に「朱」とヒスイの「翠」に対する信仰があったことは間違いない。   和島の宇奈具志神社の旧社地「出田明神」では微量の水銀が検出されたとしてその根拠の一つにされていると記憶しているが、見附の小丹生神社でも祭神を社号に関連づけようとして、「小丹生命」や「埴安神」を祭神とした時期があったようだ。しかし現在は社伝のように、波多武日子命 天美明命 須佐之男命している。  須佐之男命はおそらく熱田の地に遷座してからの勧請だと思われるが、社号の「小丹生」とは何の関係も無い「波多武日子命」「天美明命」が御由緒に出て来る理由はなんだろうか。あるいは式内社認可の過程で信憑性を得るために「波多武日子命」「天美明命」を混入して整合性をとったのだろうか。
 ところが、最近の加藤 謙吉氏や古代史研究家の大和岩雄氏の研究で「丹生」と「秦氏」は密接な関係があるということが解明された。「波多武日子命」と「秦氏」の関係は「アメノヒボコ祭祀」で類似性が非常に強いのは前述してあるが、その秦氏は丹生をはじめとする水銀の精錬・鍍金の技術を持って渡来し丹生産の主役となったというのである。その辺の研究をふまえて高野山のHPでは次のように解説している。 高野山の歴史(1)開創以前 古代、高野山の麓、丹生川流域の高野・天野一帯には「丹生(にう)氏」と呼ばれる人々が住んでいました。 「丹生氏」は彩色に使われた朱の原料となる「丹(辰砂)」に関わった人々です。中央構造線沿いなど、水銀鉱床があった場所に住み、丹の産出を行なっていました。今でも全国各地に「丹生」という地名や「丹生神社」が残っています。 丹を製錬して水銀を作る技術を持つ秦氏が大陸から渡ってきてからは、丹の生産の主役は秦氏となり、丹生氏は産出を司る神、丹生都比売神(にうつひめのかみ・通称「丹生明神」)を祭祀する神官となったと考えられています。 弘法大師空海は若い頃、高野山の辺りで山岳修行をしていましたが、この丹生氏と何らかの関係を持っていたようです。唐に私費留学をすることができた背景にも、丹生氏の援助があった可能性が指摘されています。
 「波多武日子命」に朝鮮半島往来説話とアメノヒボコ祭祀が伴っていることから「秦氏」との関連は間違いないと思われるが、「秦氏」と「丹生」は諸氏の研究から近年完全に関連づけられているのである。これは記紀をはじめとする日本の史書には記載されていないことなので、「小丹生神社」の社伝が式内社認可の過程で「波多武日子命」「天美明命」の二神を混入したとするのは不可能と思われる。この祭神の二神は当初から伝承されてきた祭神名で有る可能性が高い。
 もう一つ、現在の祭神には上げられていないが、社伝に多く登場する「王仁公」も「丹生」に関連する可能性を持っている。『論語』十巻と『千字文』一巻をもたらした「王仁公」と「丹生」は今のところ直接的な関連性は見当たらないが、「王仁公」を「和爾氏」と比定すると「丹生」との関連は俄然明白になる。
 古事記では「和邇吉師」と書かれていて、朝鮮系海洋族とされる中央豪族の「和爾氏」との関連も充分考えられる。「和爾氏」の本拠は奈良県天理市和爾町で式内大社の「和爾坐赤坂比古神社」とされている。社号の「赤坂」は「赤土」=「丹」とされ「和爾」が「倭丹」であるとする説も根強い。  また、古事記に「大毘古命に、丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を副(そ)えて遣わし、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)を討たせた。この時丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いはいべ)(神を祭る清浄な瓶)を居(す)ゑて、出陣した。」  日本書紀に大彦と和珥臣の遠祖、彦国葺(ヒコクニブク)とを遣わして、埴安彦を討たせた。この時忌瓮(いはいべ)を和珥の武鋤坂(たけすきのさか)の上に鎮座(す)えた。」 とあるように「波多武日子命」の父、大彦命と年代で一致し矛盾も少ない。また和爾氏の丹生祭祀の関連も明白である。社伝ではむしろ「王仁公」の記述の比率が高く、「鸞」王の神系が分れたことや古志連と名乗ったことなど神系を記述していることから、主祭神名は「王仁公」(和邇)であったのではないだろうか。
 小丹生神社の社伝に登場する「王仁公」と中央豪族の「和爾氏」が同一がどうかはまだわからないが、波多武日子命の「波多」が「秦」と同じように、古代日本においては同音異字の場合その区別が曖昧だったのではないだろうか。すなわち古代から半島と日本を往復した「波多」と「和爾」は、後に渡来した「秦」と「王仁」と厳格に区別されていたのではないかということである。初期の「波多」と「和爾」は倭人を中心にしたコスモポリタンで、後期の「秦」と「王仁」は純粋な渡来人ではないかというのが私の推論である。
 社号と関係ないと考えられて、ともすれば誤りと見なされていた祭神を、そのまま大切に伝えて来た小丹生神社の社伝は、「王仁」の年代批判もあったりで大変な時期もあったと思うが、現代の祭神研究からすれば「丹生」信仰と密接な関係がある損得勘定抜きのたいへん貴重なものであると思う。今後祭神の解明さらに進めば、「丹生」〜「秦氏」〜「アメノヒボコ」〜「目の神」がシームレスに繋がる全国でも珍しい地域になる可能性がある。更なる研究の発展を地元の人に期待したい。

 

 新潟県神社寺院仏堂明細帳 
明治16(1883)年 記載の御由緒書 村社 小丹生神社 
祭神 小丹生命  合祀 波多武日子命 天美明命 須佐之男命 健南方命 天照皇大神 三官霊神合祭す

 

 由緒(不明点が有るので概要)  
 当社小丹生神社(の)由来者(は)元祖人皇八代孝元天皇の帝子大彦命の男(宮)波多武日子命(が)新羅国の帝王天日鉾命の女(宮)天美明命を伴い北越の国を賜りてたまいて都より至り賜う。この時漢ノ高皇帝の後「鸞」の王子、未文ノ宿禰の孫王仁公も越の元司なる波多武日子命、天之美明命の二柱に従い来り賜う。その後二柱の命は古志の北を賜り、賀摩原ヶ崎(蒲原崎か)猿橋の辺近及び領して三官ノ原に築城する。姓を小丹生三官と改めてその古跡を三官野と唱える。(その後)波多武日子命、天之美明命の二柱は越の川東金蔵山の三都嶺に鎮まり賜う。後にまた、熱田ヶ岡に宮柱大敷立て賜う。玉橋より三津ノ鳥居も千代の古より来るなり。姓を古志連と改めこの時館を蒲原の久栗山藤崎ヶ岡に移し暫く居す。姓を藤崎と改めて王仁公の男宮一王神は宮内ヶ岡の「都野神社」に鎮まり一王神と称す故に「鸞」王の神系は両姓に分るなり、その後藤崎ヶ岡より元の古跡の三官野に戻る。

 

  その後当社神系千秋万春重ねたれば弥々疲弊す。天長の頃より代々の治乱に城館社頭皆々逆郤(内輪争い)し、承平の乱に相馬の敵と戦う折り敗戦し、三官城を退く神系神職今に続くなり。錐然と延喜年中、醍醐天皇の勅に依り式に載る。小丹生神社の證旧たる神系は正しく継ぎ来るなり。然るを持って 延喜五年十二月、天皇宣坐して当社小丹生命を官幣を奉賜したまえる故はよく神書にも見えたり、往古より当社命号を小丹生命と称し社号は三官霊神と唱え須佐之男大神を合わせ祭るなり。中古天長の乱の後に今の所へ奉遷坐なり。此の所、往古熱田ヵ岡と唱える故に小丹生神社熱田明神と奉唱するなり。 
 口碑にいわく当社往古よりの宝刀、今を去る二百年前に旧社家家運一遍の際、男(子)なく他より養子いたし家乏しく都□仁離別に相成り。蒲原の郡、三条駅槻田神社の旧社家藤崎某に婚する時、当社古来の書類及八(俣?)の宝刀に至るまで持参致し、槻田神社も度重なる火災に書類消失致し、ただいまは右の(前述の)宝刀のみ残れることは、よく衆人の口碑する所なり。この宝刀たるや旧八俣ノ刀は八振にしてその一振りを小丹生神社へ奉納する。これは槻田神社に有るものがこれ也とよく衆人口碑するところ故古々に記す。  寛文、享保、宝暦年中 公儀 御条目を被り 仰ぎ出て次に諸国の一同神社を御改め、式内式外本社末社をお尋ねのみぎりは小丹生神社記を請書とし主役所へ上申するなり。

 

 その後また寛政九年神祇道御取締として出役人、宮川権頭という人に小丹生神社熱田明神と書記して上申仕えるなり。右寛文、享保、宝暦、天明、寛政の諸書はそのことを書き添える。  御本所御役所の記録に御書留ある御座、猿橋の辺に至る迄一同当社の末孫にてその産土神氏神、鎮守と今に申し伝わるや故に熱田の総鎮守とよく人の唱えるところである。右当社の旧記古證書は古きなる故にその要約を記す。本文長文にして虫食いとなるが故に後年その時々の謂れを記する。

 

 神官 祠掌 古志郡大田村 岩本肇  

 

また平安時代、三宅神社のある地域は古志郡の夜麻郷と呼ばれていたが、「温故の栞」に次のような記載がある。

 

 『耶麻神社』

(温故の栞)

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 古志郡褥抜荘村松村に耶麻神社あり同地の古称を耶麻と伝えしに依るなるべし。境内最と神古し勝地なり、牧野家記録中寛永11年戊年領分名講調書の中に村松村耶麻神社祭神は波多武日子命(私に伝 命は同郡妙見村式内三宅神社の祭神也 ※注:妙見村三宅神社祭神は正確には大彦の命)の一の王子と言い伝え今は一の宮大明神と申す伝々とあり