古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

古志の棚田 異見

f:id:koshi-miyake:20190902114820j:plain

 今年7月、歴史を同好する碩学の大先輩T氏と上越市糸魚川市を訪れた。目的は弥生〜古墳時代の県内屈指の斐太遺跡を見ること、合わせて周辺にある式内社を訪れることだった。弥生時代の竪穴式住居後が窪地として現在でも観察できる稀有な斐太遺跡は、何度訪れても新鮮な驚きがあるが、ちょうどお城のイベントをやっていてかなりの混雑だった。斐太遺跡の裏山がそのまま御館の乱に敗れた上杉景虎が自刃したという、戦国時代の名城鮫ヶ尾城となっていて上記のような看板が立ててあった

 現地に立ってみると地政上の好立地条件と言うものは、時代がどんなに変わろうとも変わるものではないという思いをT氏と一緒に実感したが、上記の縄張り図看板がとても美しく典型的な山城を理解するのにとても参考になった。棚田状に見える尾根上に書かれた白く平らないところは田んぼではなく、曲輪といい戦の時に敵を迎え撃つ要害である。棚田状に連続してあるのは高低差を利用して登りにくくするためである。これを切岸という。

 曲輪の作り方を考えるに尾根を平らに削平した残土は尾根前方へ捨てられ、切岸を高く急にするのに使われただろう。必然的に曲輪は上から下へと順序立って作られる必要がある。以下私が考える曲輪の作り方の手順である。

f:id:koshi-miyake:20190902132729j:plain

こうすれば、尾根から切岸の高さ分全部を切り出すより1/2の労力ですむし、残土を下方にランダムに捨てると返って谷などを埋め高さが稼げなくなる可能性を排除できる。

 正式な曲輪の作り方などいくら城廓史を調べても出てこないが、最小の労力で最大の効果が鉄則だろう。どちらにしても山城を作るには短時間に想像を絶する労力が必要だったろうと思う。機械の無い時代にまさに人間離れした鬼神のなせる技である。

棚田の起源

 日本の原風景として多くの人を引けつけ、写真撮影のメッカともなっている山古志村の棚田の風景も、上記のように想像を絶する労力を必要として成立したの確実だ。

 古事記に登場する久延毘古は別名「山田の案山子」天下の事ならなんでも知っている田の神。知恵の神である。ここで山田が出てくるということは山間地の田んぼの発祥が相当古い時代に遡るという証だろう。

 NPO棚田ネットワークのHPに棚田の起源として次のように書かれている。

棚田がいつごろからみられるようになったかは、正確にはわかりませんが、6世紀中葉~7世紀前半とされる飛鳥時代以前の古墳時代には出現していたとも考えられています。それらの棚田は、緩い傾斜をもった狭い谷の谷底にひらかれた棚田であったと考えられます。「棚田」という言葉が文書でみられるようになるのは室町前期で、1406(応永13)年の高野山文書の一つに、「今ハ山田ニテ棚二似タル故ニ、タナ田ト云」とあるのが最初だといわれています。

また棚田学会のHPには
棚田がいつ頃からみられるようになったのか、正確にはわかりませんが、古島(1967)の研究によると、飛鳥に都が置かれるようになる以前、古代の水田は、盆地の平坦部ではなく、盆地を取り巻く丘陵や山地に刻まれた小さな谷にできたらしいとあります。

 古代の棚田は低い谷底の低地に作られたとするのが一般的のようである。これは十分納得できる説である。越後平野の広い水田は初めから田んぼなのではなく、江戸時代初期に信濃川の堤防ができるまでは氾濫原でとても安定して農業ができるような環境ではなかった。堤防ができ、福島江用水、東大新江ができて初めて田んぼとして安定的に耕作ができるようになったようである。平地の田んぼより山の田んぼが先行しているとされる理由である。このように水田は水源の確保と安定耕作が最大の命題である。古代の棚田が小さな谷の底にできたのも、谷筋なら水の確保が容易で小さな谷なら氾濫の危険性も少ないなためだろう。至極合理的で何の不思議もない成立過程である。

夜麻の上田

 上記のように谷筋の低地から棚田ができたとする説は、温故の栞に登場する「夜麻の上田」にも対応する。平安時代の夜麻郷の比定地(温故の栞では耶麻)現長岡市村松町小山町の間を流れる太田川(故の栞では耶麻川?)がつくる扇状地で取れる米が江戸時代最上級とされ価格も二割り増し、長岡領主である牧野家への献納され年貢も減免されたようなことが書いてある。扇状地は当然階段状の棚田となる。

f:id:koshi-miyake:20190902151215p:plain

 山古志の棚田もこの様な好条件に恵まれ、山の入り口の低地から高地へと段々と耕作面積を増やして行ったのだろう。一方山古志村誌を見ると江戸時代の資料として年貢減免に関する争いや村の境界争いの記載が大半である。こらから想起されるのは過酷な領主に苦しむ疲弊し貧困な山村のイメージである。いくら貧困から逃れるためといえ、日々の農作業や管理をそっちのけにして、山を切り開き開墾に勤しむのはあまり想像できない。ましてや、秀吉の兵農分離以降農地の所有と管理は一軒の家族ごとに行われていたと思われるが、その人手では多くても男手5〜6人くらいがてっぺんのはずだ。それだけの人数で高い山の尾根を削平するような大事業が可能だろうか?あるいは山間地のうまい米を食べたい一心でグルメ根性が鬼神の様な爆発的パワーを発揮させてのだろうか?

 棚田が谷筋の低地から高地へと広がって行った過程ならばなんの疑問もないが、山古志の棚田には全く逆の尾根筋の高地から低地への動線が私には強く感じられるのである。その典型が金倉山北面の分峰山頂付近である。尾根筋の高地から低地への削平するのは山城の曲輪の製作過程と変わらない。以下その具体例を検討する。

金倉山 北面分峰

f:id:koshi-miyake:20190902162437j:plain

金倉山 北面分峰

 写真の山頂付近の雪が積もった杉ばえに水平のラインが見えるが、ここが耕作場となっている。陽当たりが悪い北向きの斜面で、写真でも逆光になっているのでよくわかると思う。山頂付近には大した水源もないだろうし、画面下半分は岩石が露出した登攀困難な絶壁で収穫した稲を運ぶことさえ困難である。画面下の岩場絶壁の沢は確か「鍛冶場沢」と呼ばれていたと記憶する。下の写真は国土交通省の61-69年の現場の空撮である。上の写真は矢印の方向から山頂をめがけて撮っている。この写真から現場は山頂付近にも関わらず水田として利用されている様だ。おそらく湧水に頼っているのではないだろうか。しかし水田として利用されているのは一部で、白く写っているのは畑か荒地である。面積的に半分くらいは占めている様だ。

f:id:koshi-miyake:20190902164720j:plain

61-69年空撮

 疑問に思うのはこの様に北向きの斜面で陽当たりが悪く、水源に乏しく半分以上が畑か荒地になる様な環境で、果たして本当に尾根を削り水田として開墾したのだろうか。現地は金倉山と大峰山の峰が至近に重なり、急激な渓谷を形成しているところである。このルートが古代の行者の道として機能したという研究もある。要害の地であるとともに峰伝いに移動する交通の要衝でもある。地政上の要地は時代が変わろうとも変化しないものである。

 最初に掲載した鮫ヶ尾城の縄張り図と比べて見て欲しい。あいにく現場はまだ未踏査であるこれ以上断定的なことは言えないが、通常の棚田の形成とは違った過程が考えられるのではないだろうか。現場を早急に調査したい。

 

竹之高地 本城地区

 次の現場は、前の写真の山と反対側に在る大峰山である。濁沢町の看板に本城と書いてあるところである。

f:id:koshi-miyake:20190902173311p:plain

濁沢町の看板

 濁沢町の上部「石畑」と「本城」と書かれているのが読めるかと思う。またその上には竹之高地町の「化物」地名も書かれている。日本広しといえども「化物」という地名はそう簡単にはないだろう。ここには「化物」にまつわる伝説と体験談も出版されている。面白いのでまた後日取り上げたい。

f:id:koshi-miyake:20190903115704j:plain

 さて「本城」である、竹之高地には落人伝説があり「本城」地名はそれと関連するのではないかと思われるが詳しいことはわからない。現地の公民館に聞いて伝承を覚えている人がいれば有り難いが書かれているものがないので調べるにも限度がある。

 ただここが城跡と関係するのではないかと思えるのは、大峰山反対側の村松城の存在である。看板にも一の段、ニの段と書かれているが、ここは正年間(729-749)の開基を伝える長岡屈指の古刹、円融寺の旧境内でその上方には村松城が存在する。南北朝時代新田義宗・義興兄弟が拠った山城とされる(詳しくは古城址狂さんのHP参照)。一の段、ニの段あるいは社段という名称自体が古代の山岳寺院を発祥とするその後の山城曲輪の形成と深い関係を表している。すでにここに私の結論が出ているが、古志の棚田の起源は通常の谷戸に作られた下から上へと始まる開墾の他に、古代の山岳寺院を発祥とする削平面が南北朝時代に山城として拡張され、戦国期の山城を経てその後田畑として再利用されたケースが多くあるのではないかということである。

kojyosikyo.main.jp

 村松城の遺構は尾根上に存在し、国土交通省の61-69年空撮にもハッキリと見て取れる。

f:id:koshi-miyake:20190902180707p:plain

f:id:koshi-miyake:20190902181359j:plain

村松城縄張図

赤い部分は空撮にはっきり曲輪として写っているが縄張図には表記されていないところである。この村松城の北隣の峰は同時期の羽黒山城となっており一体の城域を形成している。そして竹之高地本城地区とは大峰山の山頂を挟んで反対にあるが、その距離は尾根沿いに進めば至近である。村松城、羽黒山城の形成は城廓史の常識からいえば山岳寺院跡の発展形で、何もないところにいきなりできたわけではない。大峰山の尾根上にはおそらく古代山岳寺院跡が散在し小さな削平面を形成していたのだろう。この古代山岳寺院跡の削平面は村松城・羽黒山城の城域に限られたものではなく、古代行者の道として機能したとされる尾根沿いにも多数存在していたと考えられる。この本城地区も同様にそれらが南北朝期に拡張されたものではないだろうか。

f:id:koshi-miyake:20190903133049j:plain

天空農園から本城付近を遠景

f:id:koshi-miyake:20190903135444j:plain

本城付近の尾根削平

f:id:koshi-miyake:20190903134747j:plain

78年 本城付近の国土交通省空撮

上の2枚の赤い矢印は同じ場所を示している。78年当時すでに放棄水田である。本城はその上に当たると考えられる。

f:id:koshi-miyake:20190903133312j:plain

天空農園下にある小尾根の削平面、こんな狭い尾根を水田用に削平したのだろうか。

f:id:koshi-miyake:20190903133730j:plain

上の写真を下から撮影

f:id:koshi-miyake:20190903140345j:plain

61-69年本城付近の空撮

白色は畑か荒地、黒いところは杉の植林、やや薄い黒は湛水地の水田。本城地区は広い削平面を持つが水田には利用されていない。山頂に近すぎて水源がないためだろう。階段状に削平されているのがよくわかる。それにも増して山頂付近の赤い矢印は長大な切岸or土塁が存在する可能性が見て取れる。現場は尾根の最上部で水田には適さない。しかも山の畑では水平に削平する必要は全くない。

 ここも今年8月に下準備の見学を実行したが本格的な踏査はこれからである。今秋一人大峰山回峰行を実行予定である。

金倉山 南面

f:id:koshi-miyake:20190903142439j:plain

金倉山 首沢地区上部の南面

 金倉山南面に張り出した小尾根状の削平。写真では緩やか見えるが現場に行くと絶壁である。登攀は困難でましてや稲を背負っての往来は不可能である。各削平面をつなく上り道は下方に一本だけあるが他はない。

f:id:koshi-miyake:20190903143005j:plain

上の写真の削平面を上から撮影

f:id:koshi-miyake:20190903145023j:plain

現地61-69年空撮 国土交通省

削平面の幅は狭く切岸が急なことがよくわかると思う。航空写真からは現地が湛水地で水田か池として利用されてことがわかる。

f:id:koshi-miyake:20190903144210j:plain

削平面の畦

f:id:koshi-miyake:20190903152704j:plain

前年の晩秋に別の角度から撮影

水田としてなら畦が異常に広く、耕作面が深すぎるように思える。両側は切り立った谷になっておりこの削平面に導水する水路はない。というか急すぎて作れない。雨水を利用した池としか思えない。地元の方言で池を「ダブツ」というがそれだろう。略して「ダブ」とも言っていたと記憶する。

 幼い頃、まだ重機が入れないような細い山道しかない頃に金倉山の中腹に自家の山林があり、大きな池があった。直径20〜30メートルはある大池である。しかも尾根状の中段にあり周囲は築堤してある。当時は錦鯉の最盛期で多くの家で鯉を飼っていたが、当家でもその池で飼育していた。幼心に不思議に思ったのは機械も入らない山奥にそんな大池をどうやって作ったかである。錦鯉業が盛んになったのは昭和の高度成長期である。錦鯉の飼育のためだとすれば、父が自力で掘ったとしか考えられない。そこで父に「自分で掘ったのか?」と尋ねてみると「自分は掘っていない、相当昔からある池だ」と話してくれた。その相当昔というのは大昔のことだと話してくれたのをいまでも覚えている。父は何かを知っていたようである。

f:id:koshi-miyake:20190903144711j:plain

削平面両脇の谷川

 上記の写真の現場のように。ここでもこの池が養鯉用の池として作られたものならば、重機のない時代に冬場の食料確保だけの目的でこれだけの事をやってのけたのだろうか。ましてや道のない急な絶壁を鯉をどうやって運んだろうか。当時は一心太助の岡持よろしく木の桶のはずである。ここは集落からも遠いし車がなければ利用は困難だと思われる。人手でこれだけのものを作った目的が養鯉や耕作だとすると、とてつもなく不合理で無駄な労力だとしか思えない。最小の労力で最大の効果からは程遠い趣味の世界である。これは別な目的で作られたものを後に池に転用したのではないだろうか。

その謎を解く手がかりがすぐ隣の山地に存在する。

f:id:koshi-miyake:20190903150142j:plain

極小の池状工作物

堤状の周堤を伴うこの小さな工作物が池として作られたと信じる人はいないだろう。幅は3〜4メートルだが堤部が分厚い。ほとんど近世の塹壕形状である。このような土塁状の周堤を伴う池とも塹壕とも思える遺構はこの周辺の山林に大小数多くある。

f:id:koshi-miyake:20190903151908j:plain

すぐ隣の山林内の土塁

 大きな工作物の例としては、先ほどの南面の削平段のすぐ南隣の峰の山林内に、大な土塁状の遺構を伴う池状の削平が存在する。これが池なのか、土塁で囲まれた曲輪なのか簡単には判断できないが、上記の航空写真から長年耕地として利用されていないことがわかる。このように大きな遺構は首沢の山城遺構と思われる尾根上にも存在するし、金倉山西面の七祇沢の山城遺構と思われる尾根上にも存在する。その辺は以前「古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説」にも書いた。

f:id:koshi-miyake:20190903151958j:plain

土塁内部の削平

f:id:koshi-miyake:20190903152032j:plain

土塁下の削平

古志の池と志度野岐


 このような堤状の遺構を持つ山城はこの地域独特のもので他にはない。これは県内800箇所の山城を踏査した「城址」氏の言葉である。このような独特な文化はどのような背景で成立したのだろうか。かすかに残る手がかりから考えてみたい。

 まず、『出雲國風土記』の神門郡・古志郷の項に、次の記載がある。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------
伊弉那彌命の時、日淵川を以て池を築造りたまひき。爾の時、古志の國人等到来りて、堤を爲りて、即て宿居れりし所なり。故、古志と云ふ。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------
伊弉那弥の時、日淵川を利用して池を築いた。その時、古志(越)の国の人たちがやって来て堤を作ったが、ここはその折宿っていたところである。だから、古志という。

 

イザナミの時代に古志から人々が来て堤を作ったというから相当古い。この古志を越前に比定するのが現代の解釈だが、当時最先端の築堤の技術が大和政権から遠い僻地の越後古志に存在するわけがないという中央集権的発想が現代の基本常識である。イザナミの時代に中央集権もクソもないと思うが、とにかく権威主義的にはそういうことになっている。

 ついで現れるのが「高志の池君」古事記の垂仁段に「次五十日帶日子王者、春日山君、高志池君、春日部君之祖。」と書かれた五十嵐神社の祭神「五十日足彦命」の後裔である。柏崎の箕輪遺跡からは「三宅御所」木簡とともに「小池御所」木簡が出土し、平安時代に小池地名が御所として機能していたことを伺わせる。御所は天皇の在所の意味であるが、三宅も小池も式内社由来の天皇に近い名称である。五十日足彦命の後裔が「池」を名乗ったのは『出雲國風土記』に登場する古志人が築堤し池を作った記憶ではないだろうか。三条の下田村には龍神伝説を伴う雨生池があり、五十日足彦命のもう一つの後裔五十嵐小文治の出生譚となっている。

 南北朝時代になると、その池氏の後裔と思われる「越後池氏」南朝方として三条周辺や山古志に勢力を持ち、北朝方の中条氏らと争った記録がみられる。のちに北朝方となり足利尊氏に従った。1352年(正平7年)8月には金倉山の会水城〜石坂山に依る石坂氏らと蔵王堂城を攻撃している。池氏と石坂氏は領地や主君の関係で切っても切れない関係なのだ。

 また、鎌倉期~戦国期に見える荘園名として、当地は志都野岐荘・志都乃岐荘・志土岐荘・脱荘・貫荘・抜荘とも書かれ、「しとぬぎ(き)のしょう」ともいう呼ばれた(角川地名大辞典)。しとぬぎ(き)の音に対して漢字表記が多数あるのは、原音が純正な和語(大和言葉)であること表している。

 私は原音が「しとのき」で漢字表記は全て借音のための当て字だと考える。したがって漢字表記には何の意味もないと考える。和語としての「しとのき」は「しと」+「き」に分解でき、青木長者伝説でも触れたように、日本地名の多くの場合「き」は城柵を表す。「しと」は水や尿を表す古語で「雨がシトシト降る」の語源である。これらを総合すると「しとのき」は「水池の城」と解釈できると考える。

f:id:koshi-miyake:20190903180924j:plain

平安越後古図

 この「しとのき」が偽書とされる平安越後古図の康平図に登場する。「神名倉山」「三宅」「耶麻」「名木野」「川口」と周辺の地名は正確である。「褥抜山」「褥抜入」の地名も記載されていて、それぞれ山名と街道名を表していると思われる。位置的に現在の地図と比較すると褥抜山は「三峰山」褥抜入は「竜光」に比定できる。

 それにしてもこの地図が偽書としても製作者は恐ろしいほどの博識である。地元の伝説伝承に精通していなければ書けないからである。後にも先にも 「しとのき」の場所が特定されて書かれているのはこの書物だけである。そしてその場所は現代の学者が「しとのき」荘の位置と比定する場所にピッタリ符合する。明治時代の「温故の栞」にも「しとのき」荘の記載はあるが場所は特定されていない。「しとのき」荘はマイナーな荘園名で歴史上関係する事柄も少なく、よほどのことが無ければその位置を気にする人はいない。この偽書の作者は現代の地域史の研究家と同じくらいのレベルの知識を持っているのだ。

 「しとのき」が平安越後古図のように「山」に依っている地名とすれば、「水池の城」とする私の考えもより合理的になる。金倉山系で多く見られる堤状の土塁を伴う山城遺構はこの地名の起源を表しているのではないだろうか。それは遠く神代に起源を持ち、延々と池との関連性を歴史に残している壮大な伝統の城廓施設の可能性すらあると考える。

 

まとめ

f:id:koshi-miyake:20190903183923j:plain

虫亀村 闘牛の図

 上の山古志村虫亀の闘牛図を見て欲しい。江戸時代の文政3年(1820)3月25日に鈴木牧之が滝沢馬琴の依頼で描いた絵図で茶屋などの出店があり、多くの群衆が見物している様子がわかる。(出典:新潟県立歴史博物館ホームページ)

 山古志村史にあるような、陰鬱つな争議に明け暮れる疲弊した山村とは全く逆な風景である。勇壮でダイナミック、茶屋などの出店を楽しむ優雅で豊かな生活。山古志の山村の生活はこのように豊かで恵まれたものではなかったか?その基盤となったものは米作以外の農作物や縄文以来の山の恵みが豊富にあったと思われる。

 そして、古代の一時期明らかにこの地区では製鉄による隆盛期が訪れ、それが山岳寺院となりのちに山城として発展していった。山古志の美しい棚田にはその歴史が刻まれているものと考える。また、棚田と一緒に景色を彩る養鯉池も偶然の産物ではなく、神代に遡る築堤に優れた古志人の血脈を受け継ぐ施設ではないか。1000年と言われる闘牛の伝統も牛地名も偶然ではないだろう。全てそれらが歴史の中で繋がっている、古志郡の山間部は日本の歴史上の特異な地域である。というのが今回の私のまとめです。

⚫️古志志郡の山間部の棚田は一部山城曲輪遺構の発祥の可能性がある。

⚫️同じく養鯉池も築堤〜高志池君〜しとのきと続く古い起源の可能性。

⚫️古志郡山間部は古い神道の形態を信仰する山の民が鉱物ハンター、製鉄民として隆盛し、やがて山岳寺院、山城を発展形成していった可能性。