古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説 追補

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インカのマチュピチュ遺跡ではない。1970年代の金倉山遺構周辺の空撮。

三郎について [甲賀三郎の物語(柳田國男)より引用]

「三郎も八郎も元はともに末弟の最も優れていたこと意味したらしいのである。」

「世界に類例の多い末弟成功の説話は、日本では普通は三人にして伝わっている」

「大昔八十の兄弟神のために袋を負わせられたまい、妬まれて憎まれてあまたたび、生死の界を経て結局は御栄なされたたという大神は、諏訪の祭神の為には御父であた。」

 

諏訪神社上宮の大神となったと伝える甲賀三郎伝説の柳田氏の解釈。大国主命を発端として末子相続(末弟成功譚)の習俗を説いている。

穴師について [神社の起源と古代朝鮮(岡谷公二)より引用]

「もう一つは、前出の穴師坐兵主神社である。穴師はところの名でもあるが、穴を掘って採鉱する人々-天日槍の末裔-と考えられており、彼らが元来は兵器や剣に関する中国の神、兵主神を祀った神社とされる。」

「大物主の別名オオナムチについて、オオは大であり、ナは国を意味する古代朝鮮語であるところから、もう一つの別名 大国主と同意とされる説が有力だが、古事記その他で『大穴牟遅』『大穴持』と表記されることもある故、『偉大なる洞窟に坐す貴い神』という意味に解釈する…真弓常忠氏(皇學館大学名誉教授)は、この穴は穴師の穴と同様の採鉄の穴とする」

 

●「神社の起源と古代朝鮮」における岡谷氏の主張『神社=朝鮮の「堂」説』は全く賛同できないが上記のように一部賛同できる部分もある。

別部の犬について [『古代の鉄と神々』(真弓常忠)より引用]

「山の四面に12の谷あり、皆、鉄を生ず。難波の豊前の朝廷に始めて進りき、見顕しし人は別部の犬、其孫等奉発り初めき」「播磨国風土記」(讃容郡条)

「『犬』とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。(中略)『犬』が製鉄の部民を意味すると知るなら、犬上、犬飼、犬養の氏や地名も、これをたばねる人びとをいうことと判明しよう。」

神社の起源と古代朝鮮(岡谷公二)より引用

「真弓常忠氏(皇學館大学名誉教授)は「犬」を「砂鉄を含有する鉄穴山を探し歩く一群の人等の名称」すなわち穴師と同意だという。…(中略)このような穴師、犬と呼ばれた人々が鉄を求め、群れをなして出雲から東国にかけての各地を巡り歩いていたようだ。」

●「播磨国風土記」に登場する別部の犬とは部民制の別(わけ=和気)部の鉱山探知に秀でた臭覚(技術)を持つ人のことをさすとされる。

犬神人(いぬじにん)について [「中世の非人と遊女」(網野善彦)より引用]

「そして、祇園社の犬神人だけでなく…(中略)石清水八幡宮、越前の気比宮、美濃の南宮社にも犬神人がおり、さらに鎌倉の鶴岡八幡宮に属する犬神人がいたことも明らかにされている」

「犬神人、非人が王朝国家の職能民に対する支配制度としての神人・供御人制の下に組織され、京都・奈良・鎌倉の寺社をはじめ諸国の一宮・国分寺などに属するとともに、京都では検非違使(諸国ではおそらく国衙)の統括をうけていたことは、まぎれも無い事実として認識しておく必要がある。」

 

●上記の真弓氏の「犬上、犬飼、犬養の氏や地名も、これをたばねる人びとをいう」という説に基づけば、中世に登場する「犬神人」もまた鉄を探査する職能である部民を出自としている可能性が高い。 

 犬神人がいたとされる石清水八幡宮・気比宮・南宮社がともに鉄とアメノヒボコに関連が深い神社なのは偶然ではないだろう。

牟士那(ムジナ)について

日本書紀 垂仁段

丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮

口語訳

昔、丹波(たには)(のくに)桑田(くはた)(のむら)に、人がいた。名を、甕襲(みそか)という。その甕襲の家に、犬がいた。名を足往(あゆき)という。この犬は、牟士那(むじな)という山の獣を、食い殺した。その獣の腹に八尺瓊(やさかに)勾玉(まがたま)があった。よって献上した。この玉は今、石上神宮にある。

■上記説話に関するウィキペディアの解説

「牟士那」はヤマト王権に敵対する首長を指すと見る説もある。その中で、勾玉の献上はレガリア(首長の政治的権力の象徴品)の献上を意味するとして、上記説話は丹波桑田の首長がヤマト王権へ服属したことを表すと指摘される。

 『図説 丹波八木の歴史 第2巻 古代・中世編』 八木町編集委員会

そのほか、珍しく犬に関する伝承が載せられていることから、この伝承を特に屯倉警護にあたった犬養部の伝承とする説がある。この説では、丹波国に設置された「蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)」が式内社の三宅神社(亀岡市三宅町)付近に推定されることや、亀岡市曽我部町犬飼という市内の地名が根拠として指摘される。

 『新修亀岡市史 本文編 第1巻』 亀岡市

 

日本書紀の垂仁段に登場する牟士那(ムジナ)は神宝「八尺瓊勾玉」を生み出した聖獣である。ウィキペディアの解説にあるように、ここでいうムジナは人でありヤマト王権に敵対する首長である。土蜘蛛や国栖人、或いは鼠と呼ばれたまつろわぬ山の民のことである。国津神(山の民)の宗教アイテムである勾玉がムジナからもたらされたものとするのは私の想定どうりである。

 またこの説話が古志三宅神社の祭神、アメノヒボコ命が登場する垂仁段に記載されているのはただの偶然ではないだろう。またムジナを食い殺した犬が亀岡市の三宅神社に関連する犬飼部の伝承とされるのも偶然ではないだろう。甕襲の足往は間違いなく「別部の犬」と同族である。

 

 

道教=アメノヒボコ命=穴師=別部の犬=犬神人

 

地母神=オオクニヌシ命=大穴持=牟士那=団三郎狢

 

両者は系統は全く違うが意味や性格は同じ職能集団である。

当地で奴奈川姫が主宰する古志国の先住民穴神祭祀集団の牟士那がアメノヒボコ道教と融合し「団三郎貉」が生まれたとするのが私の見解。