古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

古志の冥界を司る「青の系譜」青木長者伝説

 元共同通信社記者で在野の民俗学者筒井功氏の著書「『青』の民俗学」(地名と葬制)『2015]に次のように書かれている。

信濃川氾濫原の青地名

 新潟県長岡市青島町と、その北東一キロばかりの青山町は、ともに日本屈指の大河川、信濃川右岸(東岸)沿いに位置している。ここに青地名が、ほとんど隣り合っているというほかに、まことに不可解な事実がある。

 まず、文禄元年(一五九二)の石高記載文書(高梨大平家蔵)に、青島のことが「青岐」と見えていることである。次に、明治中期成立の『温故之某』が引く「天明村名考」なる資料では、青山のことが「青田十三軒」とされていることである。つまり、古くは青島は青岐、青山は青田とも呼ばれていたらしいことになる。これを一体、どう理解すべきだろうか。
 本書でこれまで記してきたところによれば、この一帯はかつて葬送の地だったことにならなければならない。それが立証できたとしたら、ここで青島、青岐、青山、青田の名が重なっていることも、ほば説明がつくことになる。しかし、現青島、青山とも昔は信濃川の氾濫原であって、およそ古墳や横穴墓が築造されるようなところではない。資料によっても、住民の話でも、古墳墓とのかかわりは全く知ることができない。したがって、何らかの答を出すためには、もう少し視野を広げる必要がある。

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青島・青山・青木の位置、墳墓・城館の位置

 「青の民俗学」の中で「青地名」と「古墳」には密接で明快な関係があるとする氏の説に従えば、長岡市内の青島町と青山町のある辺りは古墳時代の墳墓存在しなければならない。しかし、上記のように青島町と青山町のある辺りに古墳時代の墳墓は存在しない。氏はこの綻びついて「もう少し視野を広げる必要がある」といい信濃川上流の長野県大町市社字青島まで飛んでしまう。

 しかし待って欲しいのである。氏は石高記載文書に見える「青島」と「青岐」が同じ村だとするが、青岐は「あおき」であって「あおしま」とは読まない。「あおき」村は青木村で「青島村」東方約3kmに現存する町名である。しかも、その北方1km「温古の栞」に青木神社があったとされる高畑町には周辺では一番古い平安期と推定されるの墳墓が存在したのである。氏の説は当たらずしも遠からず、青地名の集中と墳墓の関連は少なからず実証されるのである。「青島」と「青岐」の混同が無ければ「青の民俗学」の中でその成果を発表出来たはずである。惜しい限りである。

以下に長岡市史の報告を記載する。

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町田1 号塚(遺跡番号44)

高町三・四丁目
立地  東山丘陵から西へ延びる一支脈で、西の沖積地と接する丘陵の分水嶺上に、1号・2 号の二基の塚が約20mの間隔で築かれていた。1号塚の標高は約90m、沖積地との比高は約60m である。


調査 高町団地の造成に伴って、一九八二年(昭和五十七)に長岡市教育委員会が発掘調査を行なった。

 

形態(図424)  一辺約7m、高き1.2mの南側がやや広がる方形塚である。墳頂はおおむね2.4×1.8mの方形を呈していた。周溝は外形上では確認できなかったが、発掘によって上面の幅約1m、底面の幅約50~80cm、深さ15~30cm の溝が検出された。周溝は南の中央部および北西の角で途切れている。


内部施設(図424)  塚の土層はほぼ水平に堆積しており、版築によって盛土されたものと思われる。頂部から60cm 下の盛土中央部には、径10~15cm大の石が六個並べであった(第1 号石組)。石組は旧表土上に小石から人頭大の石がやや半円状に並んでいた(第2 号石組)。旧表土上の第2 号石組からは盛土前に供養祭を行なったことが推測され、また盛土中の第1 号石組については埋納物を安置した後の表示もしくは土留めなどの機能が考えられる。遺物縄文土器が二点、須恵器が一点、旧表土中からもろいそ出土した。縄文土器は前期後半の諸磯式に類似する。須恵器は杯の口縁部の小破片で、時期等は不明である。いずれも本塚との直接の関係はみられない。

性格 塚は須恵器が出土していることから、奈良・平安時代以降の中世期に築かれたものと考えられるが、時期の詳細は不明である。また封土内部に認められた石組も市内の発掘調査では類例に乏しく、その性格も具体的には明らかでない。
参考文献長岡市教育委員会『町田l 号塚』一九八三

 

 規模は7m四方の方墳で墳墓としては小さいが、1号墳,2号墳の2基が存在した。施設内から須恵器が出土している事は注目に値する。新津丘陵から長岡東山かけて前期古墳が点在するが、長岡市麻生田町付近の古墳を境に南は魚沼市の後期桜又古墳群まで古墳は確認されていない。つまり、青島、青山、青木地名が集中する長岡市中心部から南の川口町までの間は、古墳のエアポケットなのである。ひと昔前なら弥生の遺跡も古墳の存在も無いで済まされたかもしれないが、今は畿内王権の勢力が及ばないとされていた阿賀北の胎内市「城の山古墳」から畿内の文化満載の副葬品が見つかる時代である。無い方が異常なのである。この古墳が全く無い状況と青地名が集中する現象はこの地域の特殊性をかえって強調する。そんな中で町田町の墳墓は青地名が葬制に関連する強いヒントを与えてくれるのである。

 また、青木町の由来に関連して「温古の栞」は「青木長者」の伝説を載せている。「長者伝説」は民俗学の格好の研究対象とされているが、「青木長者」の伝説は一風変わっていて悲惨な一族の末路を記載している。以下に全文を掲載する。

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青木長者伝説

  数百名の山賊が押し入り家族数十名を斬殺したと伝える青木長者の住居跡は柿町山腹の平地にあると記されているが、現場は長岡市史記載の「柿館」跡と思われる。単独の主郭とその背後の立派な堀が印象的である。市史では背後の山中にある柿城の居館跡としているがどうだろうか。居館の成立が「温古の栞」の伝えるように建久年間とすれば平安末である。滅亡が應仁年間とすれば室町時代。そのような古い時代の城館は長岡市内には少ない。「柿館」は丘陵上に築かれた平山城であるが、残念ながら遺構から築城年代を推定する能力は私にはまだ無い。県内800箇所の古城趾を踏査したという「古城趾狂」さんにお伺いして見たいところである。

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柿館主郭

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柿館東後方の堀

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西郭北端の切り通し

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切り通しの西郭側は石組みである

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柿館縄張図


 

また、平安時代の墳墓がある高畑町には青木神社があり、付近一帯を「青木の里」と称したとある。

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青木神社

 

 一方、青島村の隣にある青山村の石動神社には大蛇伝説が付随している。御堂ケ淵と名づけられた池には水没した社の棟木が見えたとある事から、当地と水神信仰の関連が窺われる。現地を訪れたが石動神社は見つからず公民館の隣に諏訪社が鎮守していた。境内は社殿の規模に比べてやや広く石祠や石碑が点在していた。

 

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青山石動神社

 

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青山町諏訪社遠景

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御堂ケ淵の痕跡か?

 

5/24 補遺修正

 筒井氏の青地名と葬制に関連性があるとする説は、「青に民俗学」に書かれているが谷川健一氏の研究に触発されたものだ。谷川氏が青地名に関心を抱いたのは「日本の地名」の中で沖縄の青地名が古代の墓所を示しているという仲松弥秀の著書「神と村」での説に影響されたという。その後谷川氏の研究はアオ→オウへと音変化した全国の「オウ」地名を調べて行くうちに古代に活躍した名族「多氏」の存在に行き当たったとある。

なぜ「青」が墓所と関係するのか

 だがなぜ、「青」が墓地・葬送と関係するのか、谷川氏、筒井氏の著書を繰り返し読んだが、その部分の見解は全く書かれていない。ただ谷川氏は仲松氏の説を引用し、死者の住む世界が明るくも無く暗くも無いその中間の黄色の世界であること、沖縄では近代でも黄色の呼称はなくアオと呼んでいたことなどを根拠にしている。

 黄色といえば、記紀に登場する「黄泉国」がすぐ連想される。しかし、和語の「ヨミ」は漢語の「黄泉」と意味がイコールでは無くただの充て字とされている。和語の「ヨミ」に黄色の意味は無く、漢語の「黄泉」の「黄」は五行説で「土」を表し、もともとは地下を指したもので死後の世界という意味ではなかったが、後に死後の世界という意味が加わったとされている。和語の「ヨミ」と黄色は無関係とするのが一般的な見方のようだ。

 仲松氏は沖縄の洞窟墓の風葬の習慣から「ぼんやりした黄色の世界」を導き出しているが、これは洞窟墓の個人の観察の結果なのか、古くからの沖縄の洞窟墓に共有した観念なのかはっきりしない。

太陽信仰と色名

 日本の古代色彩名の有名な論文「古代日本語における色名の性格」(佐竹昭広1955)では,古代日本人にとって本来的な色名がアカ,クロ,シロ,アオの4種に限られ、それぞれが,明(アカ)、暗(クロ)、顕(シルし→シロ)、漠(アオし→アオ)に対応し、これらの4色も明-暗、顕-漠という光の二系列に過ぎないとしている。古代人の色名が「色相」ではなく「明度」由来であるということを力説している。

 古代日本人の色名が非常に限定されていて、基本的に光線の状態、明度に由来するという説は大変興味深い。色が光の状態を表す言葉であり、なおかつ墓所や葬制などの生死感を表す言葉であるとしたら一番近い理解しやすい解釈は太陽信仰との関連だろう。

 日本の国旗に代表される紅白がなぜめでたいのか、白は一般に死装束のイメージが定着し「死」を表すと考えられがちだがそうだろうか? 白は本来は太陽の光線を表す太陽信仰民族の白衣の色であり、朝鮮半島では日常的に着られていたようだ。三国志でも下記のような記述がある。

在國衣尚白 白布大袍袴 履革踏魏志夫餘伝)

(国にいる時の衣は白を重んじる。白布の大きな上着や袴で、革靴をはく。)

 日本で死に際して白装束をまとうのはそれが死を意味する色では無くて、本来は太陽信仰民族の証として冥土に旅立つための正装であったのではないか?弥生初期に太陽信仰の祭器である多鈕細紋鏡とともに、それを祭る者が着た白衣の文化が渡来し神聖視されたのだと思う。「シロ」が死や悲しみを表すようになったのは、その後の時代で中国の五行説の影響であり古来からの概念ではないと思われる。その太陽信仰を仲介したのが大陸や半島にも行き来していた日本の海人族の人々で、渡航途中の深い海の青から常世の国を連想し、「シロ」に対比した「アオ」を死後の世界と関連させたのではないだろうか。単純に考えても太陽信仰において「アカ・シロ」が太陽光線の最高の状態を示すものであり、全ての生物の生命の根源で生命力を表す色と考えれば、それに対比する「クロ・アオ」が生命の終末や衰弱を表すと考えるのも簡単だ。

「黒」も墓所と関係する

 その証拠に「クロ」も墓所・葬制と密接に関連している。安達ヶ原の鬼婆」伝説に取材した能の「黒塚」や太陽信仰と関連する三角縁神獣鏡を大量に出土した天理市の「黒塚古墳」、その他にも「黒田」と名のつく古墳名や所在地名は全国各地に多く存在するる。新潟県内では近年上信越バイパス工事で発見された上越市の黒田古墳群が有名である。黒名称が青地名に負けないくらい全国に古墳と関連して分布するのは有名な事実だ。このように「クロ」が太陽信仰と関連して光の強弱でつけられた終末の色名称であると考えるととても理解しやすい。

日本の色概念の変遷

 筒井氏・谷川氏とも触れれいない、なぜ青色地名と古墳・葬制が関連するのかは、太陽信仰と関連して考えるのが一番理解しやすいと思うが、全てが太陽信仰と割り切れるかとなると別問題だ。銅鏡を伴う太陽信仰が日本に入ったのは弥生初期だろうが、それ以前にも「アカ・クロ」の色彩対比概念は存在していると考えられるからだ。縄文時代でも「朱」が意図的に用いられているし、水銀朱を祭祀用に採取した遺跡も見つかっていることから「アカ」に対しては相当古くから生活や信仰と関連して用いられてきたことがわかる。これが太陽信仰と関連するかどうかはわからないが、少なくても朱彩土器が赤漆の漆器と同じように「アカ」の食器で食事をすることが「生命」を補強する行為だと考えられていたのではないだろうか。縄文期の記憶がある「アカ・クロ」は弥生期に多鈕細紋鏡と白衣を伴う太陽信仰に出会い、海洋民族がもたらした「シロ・アオ」で補強され、その後大陸の陰陽五行思想の色の概念に変わっていく。これが日本の色に対する概念の変遷ではないだろうか。

新潟県内の色地名

 新潟県内には「青地名」や「青伝説」、「黒地名」や「黒伝説」が多く分布していてる。谷川健一氏が主張する「海人族」の東漸の証である「青海」地名は糸魚川から柏崎加茂にかけて広く分布する。糸魚川市青海神社の祭神「椎根津彦命」は神武東征に従った海人であるというのが根拠になっている。谷川氏の「海人族」が柳田國男氏の海上の道を想定した沖縄南方諸島民族と同じとすることには多少のニュアンスの違いを感じるが、新潟県内の青地名の分布は海洋民族由来というには同意する。また、長岡周辺に多くある青木地名の木(き)の由来が上代の墓を意味する「城(キ)」に関係しているという筒井功氏の説にも同感する。

 恐らく、弥生期から古墳期にかけて県内には畿内王権の海人族関連の人々が進出して来たのは事実だろう。谷川氏の見解と違うところはその海人族が南方諸島由来ではなくて、太陽信仰を持った大陸由来だと思うところである。沖縄はむしろそうした古い記憶が残った地域ではなかったろうか。

 「青海」地名は太陽信仰をもたらした海人族が底知れぬ深い海の青を海の向こうにあるとされる常世の国と認識した結果だと考えるが、こうした太陽信仰との対比の関連では当地域の 三宅神社にも当てはまる。三宅の(ミヤケ)も本来の意味は、御(ミ)朱(アケ)であって色名に由来し、その根本の思想は太陽信仰であったと考えている。天之日矛命の祭神名やその妻神の阿加流(明る)比売神の神名も、辰砂を指すと思われる赤い石も全て太陽信仰を指し示している。金倉山山系にも美明山-黒倉と光の明暗に対応する地名が伝承されている。新潟県内の青海神社と三宅神社はともに太陽信仰を表す神社名だと考える。

 この他県内では、黒鳥兵衛伝説など格好の研究対象となる伝説伝承が数多く眠っている。色彩と信仰の関係はまだまだ奥が深くそう簡単には結論を出せないが、今後も研究を続けたい。

古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説 追補

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インカのマチュピチュ遺跡ではない。1970年代の金倉山遺構周辺の空撮。

三郎について [甲賀三郎の物語(柳田國男)より引用]

「三郎も八郎も元はともに末弟の最も優れていたこと意味したらしいのである。」

「世界に類例の多い末弟成功の説話は、日本では普通は三人にして伝わっている」

「大昔八十の兄弟神のために袋を負わせられたまい、妬まれて憎まれてあまたたび、生死の界を経て結局は御栄なされたたという大神は、諏訪の祭神の為には御父であた。」

 

諏訪神社上宮の大神となったと伝える甲賀三郎伝説の柳田氏の解釈。大国主命を発端として末子相続(末弟成功譚)の習俗を説いている。

穴師について [神社の起源と古代朝鮮(岡谷公二)より引用]

「もう一つは、前出の穴師坐兵主神社である。穴師はところの名でもあるが、穴を掘って採鉱する人々-天日槍の末裔-と考えられており、彼らが元来は兵器や剣に関する中国の神、兵主神を祀った神社とされる。」

「大物主の別名オオナムチについて、オオは大であり、ナは国を意味する古代朝鮮語であるところから、もう一つの別名 大国主と同意とされる説が有力だが、古事記その他で『大穴牟遅』『大穴持』と表記されることもある故、『偉大なる洞窟に坐す貴い神』という意味に解釈する…真弓常忠氏(皇學館大学名誉教授)は、この穴は穴師の穴と同様の採鉄の穴とする」

 

●「神社の起源と古代朝鮮」における岡谷氏の主張『神社=朝鮮の「堂」説』は全く賛同できないが上記のように一部賛同できる部分もある。

別部の犬について [『古代の鉄と神々』(真弓常忠)より引用]

「山の四面に12の谷あり、皆、鉄を生ず。難波の豊前の朝廷に始めて進りき、見顕しし人は別部の犬、其孫等奉発り初めき」「播磨国風土記」(讃容郡条)

「『犬』とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。(中略)『犬』が製鉄の部民を意味すると知るなら、犬上、犬飼、犬養の氏や地名も、これをたばねる人びとをいうことと判明しよう。」

神社の起源と古代朝鮮(岡谷公二)より引用

「真弓常忠氏(皇學館大学名誉教授)は「犬」を「砂鉄を含有する鉄穴山を探し歩く一群の人等の名称」すなわち穴師と同意だという。…(中略)このような穴師、犬と呼ばれた人々が鉄を求め、群れをなして出雲から東国にかけての各地を巡り歩いていたようだ。」

●「播磨国風土記」に登場する別部の犬とは部民制の別(わけ=和気)部の鉱山探知に秀でた臭覚(技術)を持つ人のことをさすとされる。

犬神人(いぬじにん)について [「中世の非人と遊女」(網野善彦)より引用]

「そして、祇園社の犬神人だけでなく…(中略)石清水八幡宮、越前の気比宮、美濃の南宮社にも犬神人がおり、さらに鎌倉の鶴岡八幡宮に属する犬神人がいたことも明らかにされている」

「犬神人、非人が王朝国家の職能民に対する支配制度としての神人・供御人制の下に組織され、京都・奈良・鎌倉の寺社をはじめ諸国の一宮・国分寺などに属するとともに、京都では検非違使(諸国ではおそらく国衙)の統括をうけていたことは、まぎれも無い事実として認識しておく必要がある。」

 

●上記の真弓氏の「犬上、犬飼、犬養の氏や地名も、これをたばねる人びとをいう」という説に基づけば、中世に登場する「犬神人」もまた鉄を探査する職能である部民を出自としている可能性が高い。 

 犬神人がいたとされる石清水八幡宮・気比宮・南宮社がともに鉄とアメノヒボコに関連が深い神社なのは偶然ではないだろう。

牟士那(ムジナ)について

日本書紀 垂仁段

丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮

口語訳

昔、丹波(たには)(のくに)桑田(くはた)(のむら)に、人がいた。名を、甕襲(みそか)という。その甕襲の家に、犬がいた。名を足往(あゆき)という。この犬は、牟士那(むじな)という山の獣を、食い殺した。その獣の腹に八尺瓊(やさかに)勾玉(まがたま)があった。よって献上した。この玉は今、石上神宮にある。

■上記説話に関するウィキペディアの解説

「牟士那」はヤマト王権に敵対する首長を指すと見る説もある。その中で、勾玉の献上はレガリア(首長の政治的権力の象徴品)の献上を意味するとして、上記説話は丹波桑田の首長がヤマト王権へ服属したことを表すと指摘される。

 『図説 丹波八木の歴史 第2巻 古代・中世編』 八木町編集委員会

そのほか、珍しく犬に関する伝承が載せられていることから、この伝承を特に屯倉警護にあたった犬養部の伝承とする説がある。この説では、丹波国に設置された「蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)」が式内社の三宅神社(亀岡市三宅町)付近に推定されることや、亀岡市曽我部町犬飼という市内の地名が根拠として指摘される。

 『新修亀岡市史 本文編 第1巻』 亀岡市

 

日本書紀の垂仁段に登場する牟士那(ムジナ)は神宝「八尺瓊勾玉」を生み出した聖獣である。ウィキペディアの解説にあるように、ここでいうムジナは人でありヤマト王権に敵対する首長である。土蜘蛛や国栖人、或いは鼠と呼ばれたまつろわぬ山の民のことである。国津神(山の民)の宗教アイテムである勾玉がムジナからもたらされたものとするのは私の想定どうりである。

 またこの説話が古志三宅神社の祭神、アメノヒボコ命が登場する垂仁段に記載されているのはただの偶然ではないだろう。またムジナを食い殺した犬が亀岡市の三宅神社に関連する犬飼部の伝承とされるのも偶然ではないだろう。甕襲の足往は間違いなく「別部の犬」と同族である。

 

 

道教=アメノヒボコ命=穴師=別部の犬=犬神人

 

地母神=オオクニヌシ命=大穴持=牟士那=団三郎狢

 

両者は系統は全く違うが意味や性格は同じ職能集団である。

当地で奴奈川姫が主宰する古志国の先住民穴神祭祀集団の牟士那がアメノヒボコ道教と融合し「団三郎貉」が生まれたとするのが私の見解。

 

古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説


同じ穴の狢

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▲美しい古志の自然。左手の小尾根の削平地が主郭

 昨年末に城館跡と思われる金倉山山系にある未確認の遺構を古城址研究家のM氏と訪れた。その際に尾根上にある曲輪跡らしき大きな削平の下に、強大な円形の土塁跡が現れた。通常ならば城塞の防御施設としてそのまま素直に発見を喜ぶのだが、何かおかしいのである。(写真はすべてM氏提供)

 円形状に上下2個、上面の切岸と連携して一体に整形されたその土塁は、内部がクレーターのように凹んでいるのである。

 「池?」当地は錦鯉の産地で養鯉業が盛んである。その起源は江戸時代と言われているが、食用として真鯉を飼っていたのは記録に無いだけで相当昔から山間地の冬場のタンパク源として行われていたのは想像できる。

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▲ついに尻尾を現した団三郎貉の末裔。段の野面積みは新潟の山城遺構では珍しい。穴太衆の仕業か?

 私たちは当然その事が思い浮かんだ。だが「池」と単純に割り切れない思いがある。それは尾根上に池を作るのは水利の点で不利であること。配水用の黒ホースが簡単に手に入る現代ならいざ知らず、沢筋から何十メートルも斜めに水路を掘るのは至難である。おまけに水路を確保するためには沢筋にダムを作らなければならない。二度手間である。万が一池として作られたとしても、今度はその目的が不明である。食用の真鯉育成用だとしたら、集落まで距離がありすぎて運べない。耕作地の水利用だとするには下部に配水するべき耕地がない。

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▲窪地状土塁のただならぬ気配に恐れをなして逃げ出す団三郎貉の末裔(笑)

 こうした常識的な思いのほかに、「何かがおかしい」という思いを見た瞬間に強く感じた。「何かがおかしい」それは通常の城砦遺構を見慣れてきたからこそ感じる違和感、普通の物理的施設が持たない精神的・宗教的な感じ、山奥の人目につかないところにひっそりとある石仏や石祠、石塔の周辺に感じるような空気の重さ。それを感じたのである。

 M氏もやはりそれを感じたらしく、このすり鉢状の円形土塁が宗教施設ではないかと盛んに言ってきている。この地のは、まだ人目にふれないこのような「穴」に起因する遺構が数多く眠っているのは確かである。

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▲石組みの露出した二重土塁 大規模な土木工事は団三郎狢の得意とするところ 

未確認の遺構なので行政に確認調査をお願いしたが返事はなし。

 

日本三名狸「団三郎貉」は古志郡六日市村の産

 地元の城塞遺構を踏査するにあたり、石坂与十郎という地元の戦国武将を検索した。その中で、柳田國男「一目小僧その他」の項目とともに石坂与十郎を記載しているサイトが目に止まった。柳田國男「一目小僧その他」と石坂与十郎の組合せは「団三郎貉」だと直感した。それも、相当深く研究している人物だと容易に想像がつく。

 上記のサイトを拝見すると管理人さんは書籍の後書きに名前が載るような文化人であった。私のような気まぐれな駄ブログを書く人間とは訳が違う。「団三郎貉」に興味を持ってもらって本当にありがたいと思った。地元の情報が欲しいという管理人に連絡を取り資料を送付させて貰った。

  そんな訳で兎にも角にも地元には日本三名狸「団三郎貉」は古志郡六日市村の産であるとの伝承が残っている。そのことは明治の民俗資料「温故の栞」にも描いてある。また地元の小学校の昭和11年の「郷教育資料」にも記載されている。柳田國男は「一目小僧その他」の「隠れ里」の中で温故の栞記載の伝承以外に、年代や実名まで出して六日市村の伝承を紹介しているが、その部分の出典は不明である。柳田は長岡の他にも小千谷にも来ているから、恐らくは直接採取した可能性が高い。

  柳田國男が「団三郎貉」を偏愛と言えるくらい取り上げていて、「隠れ里」で六日市村の団三郎貉伝承を紹介しているのを、長岡市内でどれくらいの人が知っているだろうか?ほとんど皆無だろう。また柳田國男は長岡を訪れた際の印象をよく書いていない。民俗文化に無理解な風土を敏感に感じ取ったのだろう。

 「温故の栞」を資料として持ち出すと、歴史史料と民俗資料の区別がつかない輩が鬼の首を取ったように「温故の栞」の信憑性を問題にしてくる。歴史学民俗学をごっちゃにするのは愚の骨頂だと思う。その背景には民俗学への蔑視があるのだろうか。柳田が長岡に愛想を尽かす理由が良くわかる。問題があるのは「温故の栞」ではなくてそれを恣意的に利用する人間の方だろう。

 

日本の法曹界を揺るがした「たぬき・むじな事件」

 普通、人は日本三名狸というのに「貉(むじな)」というのはこれ如何に?と思うだろう。この用法の混乱は刑法の根幹に関わる大事件「たぬき・むじな事件」を呼び起こす原因となった。

 狸と貉が同一かそうでないかで最高裁まで争われた事件である。現在の一般の共通定義では狸はイヌ科の哺乳類一種のことを指し、狢はイヌ科のタヌキあるいはイタチ科のアナグマの異名とされている。世界大百科事典では「瀬庄三郎によれば,東京以西では動物学上のタヌキを正しく〈タヌキ〉と呼ぶが,これは比較的新しいことばであり,古くはタヌキを指してムジあるいはムジナと呼び,アナグマをマミあるいはササグマと呼んだという。しかし,これは必ずしも確かではなく,タヌキとアナグマの双方をムジナとい呼ぶ地方もある。」とあるが、要は地域によって狸と貉は同一視されてきたということである。

 「たぬき・むじな事件」の被告はその辺の日本の伝統習俗事情に精通し、初めから準備周到警察からの告発を狙って仕掛けたのではないか。そうでなければ、狸一匹のために最高裁まで行き経費も時間も無駄にする理由がまるでわからない。最高裁判事を化かすことだけを目的にした名狸の末裔なのかもしれない。

  この地域でも上記の分類に同じく、狸と貉は同一と一般的には思われて来た。ただ猟師たちだけは、狸は不味いが貉は美味いくらいの差は感じていたようだ。いずれにせよもはや貉という言葉は若年層には通じない死語となっている。

 

魔性の三郎

 この地には団三郎の他に弥三郎婆の伝説があるのは過去に書いた。全国的には風の三郎、甲賀三郎、伊吹弥三郎などの多くの「三郎」が存在し、全て魔性の者として伝承をされている。「三郎」伝説は日本古来の国津神である山の民が母系制を採ったことによる末子相続制の比喩の現れだろう。その末子が魔力を持つというのは国津神である山の民の習俗が新興の渡来文化を背景とする天孫系にとって手強い競争相手であったことに起因するのでないか。

 国津神の主宰神とされる大国主命記紀の説話は、末子成功譚としても知られる様に末子相続の習俗を色濃く反映している。同様に海幸彦山幸彦の説話も弟が最終的に権力を握るという設定である。またこの説話に共通なのは呪法として道具を使うことがあげられる。大国主命では「蛇の比礼、呉公と蜂の比礼」、海幸彦山幸彦では「潮満瓊・潮涸瓊」が登場する。それまでは「穴籠もり」「禊」「うけい」「柱の周りを回る」といった原始的な人間の「行為」が呪法であったのに対して、呪法として一段進んだ「道具」の使用は先進的な呪術文化の受容を意味する。

 この先進的な呪法を天孫系に先駆けて受容していたという記憶が国津神の末裔である三郎に魔性を与えた根源だろう。そしてその先進的な呪術文化とはおそらく黄巾や呪符の道具を使用する「道教」である。他にも仙境訪問譚と呪術行使、降伏儀礼に見られるような明らかに道教の影響と思われる記述ははなせか海人より山人の方が強い。

 「あま=天=海人」であることから考えて古代の日本では一時期「天孫系」と「海人族」が同一視された時期があると思われるが、通常考えれば進んだ大陸の文化を受容するのは海上交通を掌握する「海人族」の方である。だが、大国主命や海幸彦山幸彦の説話では逆である。これは受容の仕方が通常の大陸との交易とは異なっていたこのと表れではないか。つまり「山の民」に向けてピンポイントで特定の目的を持って「道教」が放たれたことの証ではないか。秦の時代に蓬莱山を目指して3000人男女を持って放たれたと言う「徐福伝説」は日本各地に存在するが、特にゴトビキ岩や花の岩屋などの磐座祭祀のメッカで「山人」王国である熊野地域に伝わる徐福伝説は上記の可能性を強く示唆する。

女王国の本質

 それではなぜ、秦の道士たちは日本を目指したのか、それは不老不死を目的にする道士たちにその当時の日本がよく適合したからだろう。母系制の縄文時代が1万年も続いたのはエデンの園状態が良く保たれた証である。理性や知性、倫理は無いがストレスもない。野蛮だが争いのない平和な社会。自由恋愛でノンストレス、長生きしない方が嘘である。老荘思想の理想そのものである。魏志倭人伝の「其人壽考、或百年、或八九十年。 」(人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。 )はそのことを指しているのだろう。
 中国人の母系社会への思慕は女媧伝説や西王母伝説、老子の一節「谷神不死 是謂玄牝玄牝之門 是謂天地根」にはっきり表れている。当時の日本は縄文由来の女王国だったが、これは縄文由来の山の民の習俗である。これは日本独自のものではなく狩猟採集社会の旧石器時代は世界中遍く母系社会だった。各地で出土する地母神信仰のヴィーナス像はその証である。しかし、大陸ではその後、遊牧民起源の略奪闘争を目的とする父系制が浸透し、理性と知性、自他を区別する血統が重視され殺戮とホロコーストが繰り広がれられた。略奪闘争は我々に理性と知性を与え文明を産んだが、不自由と殺戮という強烈なストレスを与え人々は短命になった。まさに失楽園である。

f:id:koshi-miyake:20190222124752j:plain 旧石器時代 ヴィレンドルフのヴィーナス

  縄文社会の母系制は、日本中の全ての男性が国々を放浪して子孫を残している大国主命の様な状態で、自分の子供がいるかもしれない他地域とは戦争などできるはずもない。一方女性の方も港港に女を作りいつ帰ってくるかわからないフーテンの寅さんの様な旦那を当てにするわけには行かない。多くの貢物を他地域からもたらす男性を訪来神として受け入れ、複数の系統の子孫を残していったのだろう。大国主命と奴奈川姫の婚姻説話もその反映だろうし、魏志倭人伝の伝える「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。」身分の低い者でも2〜3人の妻を持つという記述は、人口構成比から言って成りたたないが、多夫制やグループ婚の視点からは十分に成立する。弥生時代の日本の婚姻制度は母系制を強く保持していた表れだろう。

 また、古事記の伝える天之日矛伝承に登場する難波の比売碁曾の社の阿加流比売神とその母親の記述も母系社会の特質をよく伝えている。特に女神の母親が「卑しい女」とされるのは注目に値する。古今東西神々の出自が「卑しい女」であるとは聞いたことがない。これは零落した女王国の巫女の姿であるに違いない。巫女=遊女である事は多くの民俗研究家の指摘するところであるが、母系社会はこうした自由恋愛が当たり前であり倫理的にも認められていたのである。

 こうした習俗のもと、多くの貢物をもたらす男性訪来神を頻繁に受け入れる平和な状態では女王国は成立するが、父系制を基盤とする戦闘民族と出会うや否や女王は経済基盤を失い権威のない遊女へと零落する。これが古事記の伝える本質である。

 倭国大乱以前の日本は大陸から文化的に隔絶していたため、道士達が理想とする母系社会がより強く残っていたことが「山の民」に道教がダイレクトに伝播した理由だろう。「山の民」が出自である末子「三郎」が魔性の者と呼ばれる理由は、このように強い呪術性をもつ道教を先行して受容した山の民への畏怖がある。その為「三郎」には道教と共に受容した金属神としての性格や磐座の装置である「穴」伝説が付きまとうのである。

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日本の古代信仰変遷 多分こんなんだったんじゃないかな図

 穴師の系譜

 日本で道教を受容したのは山の民が先行した可能性が高いが、それの橋渡し役となったもう一つの渡来氏族が秦氏だ。現在では秦氏と金属神アメノヒボコ命の関連は濃厚でほとんど確実とされているが、アメノヒボコ命が本当の祭神ではないかという説のある穴師兵主神社の旧鎮座地は「弓月岳」とされる。応神期に渡来したと伝える 秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔「弓月君」と同名なのは偶然ではないだろう。ちなみに秦氏と縁が深いと言われる平安時代陰陽師「安倍 晴明」は難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もあるとされるが、難波吉士は六日市三宅神社の祭神、波多武日子命の後裔とされる。金属神アメノヒボコ命と穴師の関係は鉱山土木技術の伝来を伝えているのだろうが、山の民の盟主「大国主命」にも穴神伝説が付きまとう。おそらく縄文時代の穴神信仰は地母神信仰と同一で鉱山土木技術とは無縁だったろう。しかしそこに道教や鉱山土木技術をもたらした渡来集団が、当時の日本の母系社会への志向が強いため上書きされバージョンアップした、これが地母神信仰の穴神が神道の磐座信仰へ進化した原因と思う。

 その後戦国期に至って活躍した近江の石工集団、穴太衆は渡来人の末裔とされ、「穴太衆石積みの歴史と技法」の中で大阪芸術大学教授の福原成雄氏は「「新撰姓氏録」には,穴太の地を包括する大友郷や,その南に隣接する錦部郷,そして古市郷では,穴太村主氏や大友村主,錦部村主などの渡来人が穴太や周辺一帯に居住したことが記されている。」と述べている。古墳の築造や石棺の制作に携わった穴太の民も土木技術を持って渡来した人々だったのである。

地母神道教=鉱山 団三郎の実体

 団三郎の実体は地母神信仰を基盤に持つ母系制を伝統とする「山の民」が「道教」を受容し、土木や鉱山など大陸渡来の技術を駆使したハイブリッド集団である事はまず間違いない。倭国大乱の前に天孫系に先行し対抗した記憶が団三郎に魔性を与えたが、本質は土木工事に秀でた穴掘り職人集団である事は明白である。古志郡夜麻郷は奴奈川媛を盟主とする山の民の王国であるが、そこに初期秦である波多武日子命とアメノヒボコ命を奉祀する集団が来臨し天孫系に拮抗する強固な王国を作った。

 神倉山は還元率の高いアカメ砂鉄の宝庫で柔らかい安山岩の釜沢石を粉砕して直接鉱石として使用した。その最活躍したのが土木・鉱山技術者の「団三郎」である。還元率の高いアカメ砂鉄は鋳造には向くが鍛造には向かない。武士階級の隆盛とともに粗悪な鋳鉄は見向きもされなくなり廃れていく。それとともに六日市村の団三郎も零落し、村人から追われる存在となったのである。

 その後金鉱の隆盛と共に佐渡に渡った団三郎は、再び土木・鉱山技術者として隆盛し、日本三大狸として名を成し世に知られるように成ったのだろう。

 

団三郎狢の後日譚

 「山怪」 山人が語る不思議な話  山と溪谷社 が人気である。佐渡に渡っていなくなったはずの団三郎狢であるが、その地霊はまだ当地に強く存在しているようである。

次回その後日談を紹介したい。

 

穴籠りの呪術と磐座_1

 新潟は今積雪シーズンの真っ最中。昨年訪れた遺跡や伝承地は特に豪雪地帯として有名な中越地域の山間部なので小雪と言われる今年でも1〜2m雪が軽く積もっている事だろう。

f:id:koshi-miyake:20160204095916j:plain 小千谷市ほんやら洞祭り

 さて、昨年は地元の巨石祭祀と窟・隧穴信仰の伝承地をいくつか踏査し、巨石祭祀と窟・隧穴信仰がセットとして存在するケースの多さに驚いた。現在「磐座」信仰の中心施設とされるのは柳田国男氏の説から、神の依り代とされる岩石に限定される場合が多いが、本来の「いわくら」は吉野裕子氏や井上辰夫氏がいうように「岩石」と「窟・隧穴」がセットとして信仰されてきたとする説の信憑性を実感することが出来た。

  それではなぜ、神道の祭祀とは一見無関係に思える片田舎の山間地に、しかも神道の古い形とされる磐座信仰のそのまた原始形態と思われる「巨石と穴」の組み合わせの伝承が残されているのだろうか。

 可能性として考えられる事は、天孫降臨以後国譲りをへて中央集権的な祖霊崇拝を中心とする天皇家を頂点とする神社祭祀が始まる以前に、「いわくら」がすでに国津神と言われる在地の勢力の信仰の対象として広く存在して機能していたのではないかということだ。

 神道の祭祀としてただ古いだけでなくて、天皇家を頂点とする祖霊崇拝の神道とは別系統の信仰として存在していたということである。これならば、古い形の神道祭祀が日本各地に散在していても少しもおかしくない。もちろん、「いわくら」はその後記紀等の記載に登場するように天皇家を中心とした神道の中に吸収されて行く。

 雪が深く私の得意なフィールドワークは当分無理なので、今までの考えをこの機会に少しまとめたい。

 

記紀にみる「岩窟」「磐座」

 古事記日本書紀に書かれた「岩窟」「磐座」が古い時代の記憶であると考えられるのはその記載が神代に限られることや、「岩窟」に類する「室」(ムロ)が後述のように、古事記中の「大国主命」の段に登場することが挙げられる。「大国主命」は国津神の主宰者である。

  まず、「岩窟」のほうから考えてみたい。古事記日本書紀に登場する「岩窟」関連の項目は以下の通りである。

天石屋・天石屋戸古事記3カ所)

天石窟・天石窟戸日本書紀神代上5カ所、神代下1カ所)

いずれも有名な天照大神の天岩戸隠れの段に登場するものと、天孫降臨の際、天照大神が誰が適任かの問に、思金神及諸神が「天安河の河上の天石屋(あめのいはや)にいる伊都之尾羽張神(天尾羽張神)がよいと答えたという段に登場する。

 また「室」(ムロ)は古事記のみに記載される大国主が根の国にいる速須佐之男命の娘である「須勢理毘売命」にたいする求婚難題譚として登場する。この件は物語としても大変良くできている。恐ろしい蛇やムカデが充満する穴倉、それを撃退する魔法の領巾(ひれ)、大国主須勢理毘売命ラブロマンス。今風に言えば冒険とサスペンス、ファンタジーが満載である。以下の古事記で記載される室(ムロ)の内容である。

蛇室・入吳公與蜂室

大国主命は蛇・ムカデ・蜂のいる室に入れられるが、須勢理毘売命が差し出した領巾(ひれ)を三度振って打ち払って難を逃れる。

八田間大室 

最後に須佐之男命がいる室に連れてこられて頭の虱(しらみ)を取らせた。頭を見ると、百足(むかで)がたくさんいたが、須勢理毘売命の手配で難を逃れる。

 「室」は現代では「部屋」の意味で使われているが、古代の 「室」(ムロ)の意味は 1.「山腹などに掘って作った岩屋」意味であり、2.「土を掘り下げ、柱を立て屋根をつけた家」や3.「周囲を壁で塗り込めた部屋」の意味として使われた。(大辞泉

古事記ではわざわざ根の国のことと前置きしてあるので、地下を意味する「根の国」との二重の意味で「室」が「穴」あるいは「半地下」を意味して使われたものと考えられる。

 

穴籠りの呪術としての「御室神事」

 前述の2の「土を掘り下げ、柱を立て屋根をつけた家」の意味では竪穴式住居そのものであるが、この形式の「蛇室」に対する信仰が中世まで存在した。それが諏訪神社下社の「御室神事」である。

 吉野裕子氏の「陰陽五行と諏訪神社祭」のよれば、諏訪神社前宮、大祝居館の敷地内に大穴を掘り竪穴式住居そっくりな茅葺きの大室を作り、そこに藁性の蛇のご神体(ミシャグジ神=石神)とともに祝や神長官以下の神官が籠り、旧暦12月22日から翌年3月中旬寅日に御室が撤去されるまで祭祀が行われたという。その後中世に途絶したという。御室社

 諏訪神社のご祭神は言うまでもなく、大国主命の御子「建御名方神」(タケミナカタ)であるが、建御名方神が諏訪に落ち着く以前に「ミシャグジ神=石神」を統率する土着神「守矢神」がいて、建御名方神出雲族と争ったが負けて、以来大祝に仕える神官長として現代まで守矢姓として続いているという。

 ここで重要なことは、「籠る」という行為が「神事」と直結していることである。「守矢姓」も「室屋」の転化ではないだろうか。「御室神事」について吉野裕子氏は「一年の終わりと始めに当って土室が重大な祭祀の場となる事実は、土室の神聖性を証すものであり、その室の神聖性はご神体の蛇がここに籠っておられる事に由来する」と述べている。

 大国主命に付随する「蛇室」「ムカデ・蜂室」説話は、求婚難題譚としての側面は確かにあるだろうが、国津神と言われる在来勢力が地下の「穴」に対する風習を実際に持ち持ち、そこに籠る事に依ってある種の呪実を実行した事の記憶ではないか。これは「風土記」に頻繁に登場する「土蜘蛛」と呼ばれる先住民の風習描写にも通じている。国津神系の先住民が「穴」を生活の一部とし、その中で日常的にシンプルな信仰や呪術が行われてきたのはほぼ事実ではないだろうか。

 以前書いた地元にある酒呑童子が籠った「断崖穴」や茨木童子「鬼の穴」も栃尾観光協会の説明にあるように、窟籠りすることによって霊と交わり、霊力を身につける修行として実行された記憶であると考える。酒呑童子が16ヶ月、茨木童子が14ヶ月胎内に留まり生まれたという説話も同様に解釈出来ると思う。

穴籠りの呪術としての「天岩戸隠れ」

 また最大の穴籠りの呪術は天照大神の「天岩戸隠れ」であることは間違いない。古事記では

(原文)

「故於是天照大御神見畏 閇天石屋戸而 刺許母理 此三字以音 坐也」

(訳)

「ここに至って、これを見た天照大御神は恐れて、天石屋戸(あめのいはやと)を開けて、籠もってしまわれた。」

と「こもり」の言葉を使って書いている。「天岩戸隠れ」はただ単に女神が気分を概して引きこもった話ではない。それ以前に「スサノウ」を追い払おうと軍事で対立し、命がけの「誓約(うけい)の神事を実行し負け、最後に残された秘策として実行されたものである。「天岩戸隠れ」ことによって外界を変えるという至高の呪術として実行された物である。これによって軍事力では実現出来なかった「スサノウ」の放逐を実現出来たのだからこの効果は十分あったと考えられる。

 天照大神の目的は一貫して「スサノウ」の天上界からの放逐である事は前後を読めばすぐ理解出来る。また、外の賑やかさに釣られて顔をのぞかせる天照大神は永久に閉じこもってしまうのではなく、また外に出る事を前提として考えていたと思われるふしがある。その点は井野裕子氏が「女陰考」の中で「入れて出す呪術」として、天岩戸が隠れの背景にあるものは「一度び隠れた入ったものを再び出すこと」の絶対緊急必要性として書いている。

 また「天岩戸隠れ」の際、信奉されるご神体は天照大神が自分の姿に驚いたという「銅鏡」だと考える。国津神系が穴籠りの際に持ち込むご神体は「蛇」で天津神系が穴籠りの際に必要なご神体が「銅鏡」であったのではないだろうか。同じ穴籠りでもご神体の差異は当然考えられる。

  有名「天岩戸隠れ」は天孫といわれる皇室の神話が国津神の「穴籠り」の呪術を吸収して行ったことが伺える重要な説話と考える。

 

穴籠りの呪術としての「かまくら」

 最後に記紀からは離れるが現代でも行われている穴籠りの呪術として「かまくら」の行事を挙げたい。現代では呪術というよりも観光行事になっているがその起源は古く、秋田県横手市で450年、六郷町に至っては700年と言われている。(Wikipedia

 新潟県中越地域でも「ほんやら洞」という名称で観光行事として小千谷市・六日町で行われている。小正月に行われる伝統行事で、古くは、雪で「かまくら」をつくり、水神様を祀って、鳥追いの歌を歌うなど豊作祈願の伝統行事だった。「鳥追い」の歌のなかにも「ほんやら」というかけ声がありこれが語源とされる。小千谷市は「チンカラリン伝説」の地元でもある。

f:id:koshi-miyake:20160204095610j:plain 小千谷市ほんやら洞祭り

 かまくらの語源は、形が竃(かまど)に似ているから「竃蔵」であるとする説や、神の御座所「神座(かみくら)」が転じたものであるとする説などがある(Wikipedia)というが、吉野裕子氏の説く「くら」=「穴」説でその起源の意味が明確にわかる。吉野裕子氏の「陰陽五行と古代日本」第一節:日本の古代信仰 三:「穴の重視」の中でカマクラについて「この語義は不明とされているが 、おそらく「神クラ」が転じてカマクラとなったものか、または「洞クラ」の意であろう。カマは堀くぼめた凹所をさす語で穴を意味する。いずれにしてもカマクラは神の穴を意味すると思われる。」と述べている。

 かまくらは雪深い東北・北陸がおもな伝承地であるが、雪の少ない兵庫県でも行われているという。各所に共通するのは古くはご神体として「水神」を持ち込み、左義長に関連する鳥追いの歌を歌うなど、ただ単に子どもの遊びとして続けられてきたものではない。これもまた「籠る」行為によって願望の成就という単純な呪術の派生であることは明らかだ。

 カマクラの穴が女性原理を現し、そこに出入りすることは生死の疑似体験であることは言うまでもない。天をつく高木や大岩に神を降ろし、そのすぐ近辺に胎内である「穴」を造り、そこに出入りすることに依って心霊を人間に身籠らせる。これが男性原理の凸所と女性原理の凹所を併せ持つ古代「磐座」の基本システムであろう。

 

次回は「磐座」についてもう少し詳しく考えたい。

 

鬼伝説と洞窟信仰(新潟県中越地方)

新潟県内の鬼伝承

 新潟県内では多くの鬼伝説が伝えられている。特に酒呑童子茨木童子、弥三郎婆、猫又等は特に有名な伝説だ。

 酒呑童子茨木童子については全国に出生伝説があり、源頼光等による大江山の鬼退治の説話が有名なため関西発祥の伝承で新潟県は無関係のように思われるが、どういうわけか県内の伝承・伝説は他の地域よりも色濃く残る。伝承密度は恐らく日本一だろう。

 酒呑童子は弥彦周辺の岩室町和納、国上寺周辺の分水に出生伝説が地元に伝わり、今でも童子屋敷・童子田など地名や、自分の姿を映したという「鏡井戸」の井戸名としてその事跡を残している。

 また出生地に新潟県が関係する決定的な根拠として、大江町における唯一の大江山鬼退治伝説にまつわる古資料、鬼茶屋本「大江山千丈ケ獄 酒呑童子由来」に「酒呑童子は越後の国 蒲原郡中村の百姓の子なり。」と記載されている。

 

  地元でも近年「鬼」伝説についての関心は高まっているように思える。

下は昨年の燕市の広報紙の特集

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下は県立歴史博物館の企画展パンフ

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博物館の怪談 ~新潟の妖怪と妖怪博士・井上円了

2011年4月23日(土)~6月5日(日)

新潟県では酒呑童子や河童、人魚など数多くの妖怪にまつわる伝説、奇談が伝えられています。 また、哲学者、宗教学者東洋大学の創立者でもある井上円了(旧越路町出身)は日本で最初に妖怪を科学的に研究したとして知られており、妖怪博士とも呼ばれています。 新潟県の妖怪と井上円了について紹介し、新潟県の人々と妖怪との関わりやそこから見える自然観などを紹介します。

 

 

新潟の鬼に共通する洞窟信仰

  新潟を代表する鬼伝説である、酒呑童子茨木童子、弥三郎婆の伝承には不思議な事に洞窟説話が必ず付随する。

 

◇弥三郎婆の洞窟

 弥三郎婆は「鬼婆」として地元長岡市「三宅神社」に伝わるの「鎮窟」を隠れ家としていたという伝承があり、同じく魚沼市の権現堂山、長岡市小国町の八石山に同様の洞窟伝承がのこる。

f:id:koshi-miyake:20151201090132j:plain 三宅神社に伝わる鬼の面

f:id:koshi-miyake:20151202175950j:plain 鬼婆が住んだ鎮窟「鬼の穴」

 

酒呑童子の洞窟

 外道丸が鬼の姿に変わった自分の姿を見て狂乱して籠った「断崖穴」があり、窟籠りのあと酒呑童子を名乗ったという

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茨木童子の洞窟

 旧栃尾市の軽井沢に出生伝説を持つ茨木童子には、付近の鬼倉山に酒呑童子とともにたて籠った「鬼の穴」が存在する。

以下、栃尾観光協会からの引用である。

「鬼倉山」(海抜617M)と洞窟
 鬼倉の中腹に、酒呑童子と共に暮らした岩屋が現存する。しかし南向きの絶壁にあり人が近づけない所であり、窟の広さは六畳くらいの広さで、明り取りの小窓もあるという。昔、鬼倉は、山肌を露出した石山であり、沢で砂金もとれ、六才石(水晶?)と金が採掘されたという。

窟籠り
 酒呑童子が国上寺の住職に破門された後、しばらくは軽井沢の童子屋敷内にあったという窟に居候し、その後、鬼倉の窟に移り住んだという。「窟」とは、山中他界観の信仰対象でもあった。窟は霊が集まる場所として信じられ、それゆえに窟籠りは霊と交わり、霊力を身につける修行として重視された。二人が学んだものは「邪法」であり、最強の霊力を手に入れた。

 

 前置きが長くなったが、人が近づけないとされた鬼倉の窟に先日の日曜日に訪れた。

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 現場は鬼倉山に至る南尾根道の下150m付近。伝承にあるような断崖絶壁ではない。地元の人の話では炭穴としても利用したとあるから、断崖絶壁にあったとは考えにくい。また鬼倉山南斜面は尾根続きで断崖にはならない。断崖があるのは西側で遠望した感じでは洞窟の存在は確認できなかった。

 洞窟の入り口は写真のように左右1.5m、高さ90cmくらいで狭いが中は、地面が掘削されたいて結構広い。六畳まではいかないが二畳以上の広さは優にある。明確なのは地面を掘削した痕跡と天井にある巨石の表面を研磨した様子である。写真下の2枚は右が巨石の表面で左が洞窟内の天井石である。

 もう一つ気になる事は、洞窟の天井石となる巨石の上20mくらいにもう一つ3倍くらい大きな巨石が峻立していることである。これは前回紹介したチンカラリンと同じ磐座と隧穴のセットである。写真上の左側で確認頂けるが洞窟の天井石は奥の巨石が剥離して落下した物だと考えられる。その後の地面を掘り起こして天井の凸凹を研磨したのだろう。尚付近にはこれ以外の巨石は存在しない。

 前述の栃尾観光協会の解説「窟籠り」で触れられているが窟が霊が集まる場所として信仰されたのは事実だろう。新潟の伝承で酒呑童子が16ヶ月、茨木童子が14ヶ月胎内に留まり生まれたという話は、この窟籠りの比喩ではないだろうか。密教系の修行でも「堂籠り」や「山籠もり」が行われるが同じ脈絡で考えられないだろうか。

 実際、鬼倉山の洞窟内に入ってみたが、中は水が涌き出す湿った環境で長時間滞在するのは難しい。面白い事に巨石の割れ目から明かりがさし伝承の明かり取りの窓を実感する事が出来た。また、入り口が狭くて中が少し広いのは母体の構造を再現した物だと感じた。チンカラリンの穴は「女陰」の象徴であると推論したがここでも全く同様な感触を得た。また、すぐ近くにある巨大な岩は恐らく磐座として機能し男性機能の象徴として信仰されてきた物であろう。

 f:id:koshi-miyake:20151202170615j:plain 鬼倉山に至る登山道

 前にも述べたが鬼倉山の山中道で巨石が確認できたのはここだけである。写真を見た頂ければ解るが山体は土と樹木で覆われたごく普通の山である。鬼伝承のある洞窟にだけ巨石があるのは偶然では無いだろう。それでは、新潟県内にチンカラリンの伝承を残し、多くの鬼伝説を残した主体は何かそのヒントを鬼倉山の隣の五百山で見つけた。

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 五百山の山頂には自然石で北斗星と書かれた石碑がある。五百山の五百とは鋳物の「いも」と同音で製鉄に関連した地名である。付近にはそうした製鉄関連地名が豊富にある。茨木童子が生まれた栃尾軽井沢の軽もマサカリと同音の朝鮮語「カル」を起源とする製鉄地名という説もある。北斗信仰もまた製鉄深い繫がりを持つと言われている。

 たかだか地名と製鉄が関連するだけで何の根拠になるのかと疑問に思う人も多いと思うが、近年長岡市の隣の柏崎市で奈良から平安時代にかけて日本最大の製鉄コンビナートが発見された。その遺跡の名前は「軽井川南遺跡群」で製鉄地名である「カル」が入っている。

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新潟県内にまさか日本最大の古代製鉄コンビナートが存在するとは誰も考えなかったと思う。八岐大蛇伝説や鬼伝説・チンカラリン説話が製鉄という側面でリンクしてくるのは事実だろう。今後は巨石祭祀と隧穴信仰の主体を少し考えて行きたい。

 

 

チンカラリンとトンカラリン(磐座信仰との関連性について)2

弘法大師の石と「穴」

 地元に江戸時代の絵図に記録が残る「大石」という巨石がある。この大石には全国各地にある弘法伝説が伝承されている。

伝承内容はこちら↓

旧HP「神名倉山周辺の岩石信仰」

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f:id:koshi-miyake:20151021163802j:plain 六日市町 「大石」全景

f:id:koshi-miyake:20151021163526j:plain 表面の杖・足跡と言われる「穴」

f:id:koshi-miyake:20151021163823j:plain 線刻部分

 

 表面上部には弘法大師の杖の跡と足跡と伝承される丸い穴(3〜4cm)と浅い凹みが確認できる。また、明らかに線刻が認められる。長岡市内では他に栖吉地区に明治中期の「温古の栞」に記載があるという、弘法の足跡を伝える巨石が存在する。

 弘法大師の石に付随する伝説は全国的に分布するものでさほど珍しいものではない。新潟県は浄土真宗や曹洞宗が一般に普及するまでは、真言宗の王国だったというほど真言系の寺院が多かったから尚更である。

 当地でも真言系の寺院の伝承が存在するが、その布教目的で当地の巨石信仰に弘法大師の信仰が付加されて行ったものと考えられる。弘法大師の伝承が水銀鉱脈や丹生に関係が深いとされるのだから、布教にあたって各地にあった巨石信仰に注目して取り込むのは理にかなった手法だろう。

 当地にある「大石」は中世文書の地割りにも登場するので、古代から中世にかけて信仰の対象として存在していたと思われる。真言寺院ができる以前から、巨石の「穴」に対する信仰があったから、それを上書きして弘法大師の事跡に転化する必要があったのだと思われる。

磐座と「盃状穴」 

 盃状穴とは神社の灯篭や手水石等に彫られることの多い「蟻地獄」状の3〜4cmの「穴」である。元々は磐座に彫られていたものが古墳時代の石棺や道祖神に彫られて発展したようである。この盃状穴は「穴のあき石」や「石投げの穴」と同様に再生や不死・子宝の呪法と考えられている。

 六日市地域にある「大石」の弘法の杖の跡も恐らく、この盃状穴と関係があると思われる。また、盃状穴のある磐座には往々にして「線刻」が認められるのも同じである。

 磐座と「穴」の関係について民俗学ではあまり触れられていないようである。その中でやはり吉野裕子氏のミテグラ研究と女陰呪術の研究が唯一回答を与えてくれる。すなわち、「イワクラ」の「クラ」はV字型及び凹みを現すというのは、卓見ではないだろうか。日本の古代祭祀に置いて「穴」の重要性を強調した例を他に知らない。

 

チンカラリンと磐座信仰

 私は当初からチンカラリン等の「穴」の信仰を調べようとしたわけではない。三宅神社のご祭神の一人である「アメノヒボコ命」に関連する岩石祭祀を調べるうちに、当地の巨石信仰の存在するところには必ず「チンカラリンの穴」と類似な伝承が存在することが解った。当地では巨石信仰と「チンカラリンの穴」はセットなのである。そして「トンカラリン」との類似も巨大遺構に目を奪われがちであるが、その元始は本質的には同一ではないかという推論が十分成り立つことを確信した。歴史学者の井上辰雄氏が導き出した説が最終的に「トンカラリン」の謎に終止符を打つ決め手である。

 それでは、隧穴とセットの磐座信仰は高句麗の隧穴信仰が起源なのだろうか。今ではその可能性は低いと考える。

 疲れたので一休みします...。