古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

古志の冥界を司る「青の系譜」青木長者伝説

 元共同通信社記者で在野の民俗学者筒井功氏の著書「『青』の民俗学」(地名と葬制)『2015]に次のように書かれている。

信濃川氾濫原の青地名

 新潟県長岡市青島町と、その北東一キロばかりの青山町は、ともに日本屈指の大河川、信濃川右岸(東岸)沿いに位置している。ここに青地名が、ほとんど隣り合っているというほかに、まことに不可解な事実がある。

 まず、文禄元年(一五九二)の石高記載文書(高梨大平家蔵)に、青島のことが「青岐」と見えていることである。次に、明治中期成立の『温故之某』が引く「天明村名考」なる資料では、青山のことが「青田十三軒」とされていることである。つまり、古くは青島は青岐、青山は青田とも呼ばれていたらしいことになる。これを一体、どう理解すべきだろうか。
 本書でこれまで記してきたところによれば、この一帯はかつて葬送の地だったことにならなければならない。それが立証できたとしたら、ここで青島、青岐、青山、青田の名が重なっていることも、ほば説明がつくことになる。しかし、現青島、青山とも昔は信濃川の氾濫原であって、およそ古墳や横穴墓が築造されるようなところではない。資料によっても、住民の話でも、古墳墓とのかかわりは全く知ることができない。したがって、何らかの答を出すためには、もう少し視野を広げる必要がある。

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青島・青山・青木の位置、墳墓・城館の位置

 「青の民俗学」の中で「青地名」と「古墳」には密接で明快な関係があるとする氏の説に従えば、長岡市内の青島町と青山町のある辺りは古墳時代の墳墓存在しなければならない。しかし、上記のように青島町と青山町のある辺りに古墳時代の墳墓は存在しない。氏はこの綻びついて「もう少し視野を広げる必要がある」といい信濃川上流の長野県大町市社字青島まで飛んでしまう。

 しかし待って欲しいのである。氏は石高記載文書に見える「青島」と「青岐」が同じ村だとするが、青岐は「あおき」であって「あおしま」とは読まない。「あおき」村は青木村で「青島村」東方約3kmに現存する町名である。しかも、その北方1km「温古の栞」に青木神社があったとされる高畑町には周辺では一番古い平安期と推定されるの墳墓が存在したのである。氏の説は当たらずしも遠からず、青地名の集中と墳墓の関連は少なからず実証されるのである。「青島」と「青岐」の混同が無ければ「青の民俗学」の中でその成果を発表出来たはずである。惜しい限りである。

以下に長岡市史の報告を記載する。

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町田1 号塚(遺跡番号44)

高町三・四丁目
立地  東山丘陵から西へ延びる一支脈で、西の沖積地と接する丘陵の分水嶺上に、1号・2 号の二基の塚が約20mの間隔で築かれていた。1号塚の標高は約90m、沖積地との比高は約60m である。


調査 高町団地の造成に伴って、一九八二年(昭和五十七)に長岡市教育委員会が発掘調査を行なった。

 

形態(図424)  一辺約7m、高き1.2mの南側がやや広がる方形塚である。墳頂はおおむね2.4×1.8mの方形を呈していた。周溝は外形上では確認できなかったが、発掘によって上面の幅約1m、底面の幅約50~80cm、深さ15~30cm の溝が検出された。周溝は南の中央部および北西の角で途切れている。


内部施設(図424)  塚の土層はほぼ水平に堆積しており、版築によって盛土されたものと思われる。頂部から60cm 下の盛土中央部には、径10~15cm大の石が六個並べであった(第1 号石組)。石組は旧表土上に小石から人頭大の石がやや半円状に並んでいた(第2 号石組)。旧表土上の第2 号石組からは盛土前に供養祭を行なったことが推測され、また盛土中の第1 号石組については埋納物を安置した後の表示もしくは土留めなどの機能が考えられる。遺物縄文土器が二点、須恵器が一点、旧表土中からもろいそ出土した。縄文土器は前期後半の諸磯式に類似する。須恵器は杯の口縁部の小破片で、時期等は不明である。いずれも本塚との直接の関係はみられない。

性格 塚は須恵器が出土していることから、奈良・平安時代以降の中世期に築かれたものと考えられるが、時期の詳細は不明である。また封土内部に認められた石組も市内の発掘調査では類例に乏しく、その性格も具体的には明らかでない。
参考文献長岡市教育委員会『町田l 号塚』一九八三

 

 規模は7m四方の方墳で墳墓としては小さいが、1号墳,2号墳の2基が存在した。施設内から須恵器が出土している事は注目に値する。新津丘陵から長岡東山かけて前期古墳が点在するが、長岡市麻生田町付近の古墳を境に南は魚沼市の後期桜又古墳群まで古墳は確認されていない。つまり、青島、青山、青木地名が集中する長岡市中心部から南の川口町までの間は、古墳のエアポケットなのである。ひと昔前なら弥生の遺跡も古墳の存在も無いで済まされたかもしれないが、今は畿内王権の勢力が及ばないとされていた阿賀北の胎内市「城の山古墳」から畿内の文化満載の副葬品が見つかる時代である。無い方が異常なのである。この古墳が全く無い状況と青地名が集中する現象はこの地域の特殊性をかえって強調する。そんな中で町田町の墳墓は青地名が葬制に関連する強いヒントを与えてくれるのである。

 また、青木町の由来に関連して「温古の栞」は「青木長者」の伝説を載せている。「長者伝説」は民俗学の格好の研究対象とされているが、「青木長者」の伝説は一風変わっていて悲惨な一族の末路を記載している。以下に全文を掲載する。

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青木長者伝説

  数百名の山賊が押し入り家族数十名を斬殺したと伝える青木長者の住居跡は柿町山腹の平地にあると記されているが、現場は長岡市史記載の「柿館」跡と思われる。単独の主郭とその背後の立派な堀が印象的である。市史では背後の山中にある柿城の居館跡としているがどうだろうか。居館の成立が「温古の栞」の伝えるように建久年間とすれば平安末である。滅亡が應仁年間とすれば室町時代。そのような古い時代の城館は長岡市内には少ない。「柿館」は丘陵上に築かれた平山城であるが、残念ながら遺構から築城年代を推定する能力は私にはまだ無い。県内800箇所の古城趾を踏査したという「古城趾狂」さんにお伺いして見たいところである。

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柿館主郭

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柿館東後方の堀

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西郭北端の切り通し

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切り通しの西郭側は石組みである

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柿館縄張図


 

また、平安時代の墳墓がある高畑町には青木神社があり、付近一帯を「青木の里」と称したとある。

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青木神社

 

 一方、青島村の隣にある青山村の石動神社には大蛇伝説が付随している。御堂ケ淵と名づけられた池には水没した社の棟木が見えたとある事から、当地と水神信仰の関連が窺われる。現地を訪れたが石動神社は見つからず公民館の隣に諏訪社が鎮守していた。境内は社殿の規模に比べてやや広く石祠や石碑が点在していた。

 

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青山石動神社

 

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青山町諏訪社遠景

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御堂ケ淵の痕跡か?

 

5/24 補遺

 筒井氏の青地名と葬制に関連性があるとする説は、「青に民俗学」に書かれているが谷川健一氏の研究に触発されたものだ。谷川氏が青地名に関心を抱いたのは「日本の地名」の中で沖縄の青地名が古代の墓所を示しているという仲松弥秀の著書「神と村」での説に影響されたという。その後谷川氏の研究はアオ→オウへと音変化した全国の「オウ」地名を調べて行くうちに古代に活躍した名族「多氏」の存在に行き当たったとある。

なぜ「青」が墓所と関係するのか

 だがなぜ、「青」が墓地・葬送と関係するのか、谷川氏、筒井氏の著書を繰り返し読んだが、その部分の見解は全く書かれていない。ただ谷川氏は仲松氏の説を引用し、死者の住む世界が明るくも無く暗くも無いその中間の黄色の世界であること、沖縄では近代でも黄色の呼称はなくアオと呼んでいたことなどを根拠にしている。

 黄色といえば、記紀に登場する「黄泉国」がすぐ連想される。しかし、和語の「ヨミ」は漢語の「黄泉」と意味がイコールでは無くただの充て字とされている。和語の「ヨミ」に黄色の意味は無く、漢語の「黄泉」の「黄」は五行説で「土」を表し、もともとは地下を指したもので死後の世界という意味ではなかったが、後に死後の世界という意味が加わったとされている。和語の「ヨミ」と黄色は無関係とするのが一般的な見方のようだ。

 仲松氏は沖縄の洞窟墓の風葬の習慣から「ぼんやりした黄色の世界」を導き出しているが、これは洞窟墓の個人の観察の結果なのか、古くからの沖縄の洞窟墓に共有した観念なのかはっきりしない。

太陽信仰と色名

 日本の古代色彩名の有名な論文「古代日本語における色名の性格」(佐竹昭広1955)では,古代日本人にとって本来的な色名がアカ,クロ,シロ,アオの4種に限られ、それぞれが,明(アカ)、暗(クロ)、顕(シルし→シロ)、漠(アオし→アオ)に対応し、これらの4色も明-暗、顕-漠という光の二系列に過ぎないとしている。古代人の色名が「色相」ではなく「明度」由来であるということを力説している。

 古代日本人の色名が非常に限定されていて、基本的に光線の状態、明度に由来するという説は大変興味深い。色が光の状態を表す言葉であり、なおかつ墓所や葬制などの生死感を表す言葉であるとしたら一番近い理解しやすい解釈は太陽信仰との関連だろう。

 日本の国旗に代表される紅白がなぜめでたいのか、白は一般に死装束のイメージが定着し「死」を表すと考えられがちだがそうだろうか? 白は本来は太陽の光線を表す太陽信仰民族の白衣の色であり、朝鮮半島では日常的に着られていたようだ。三国志でも下記のような記述がある。

在國衣尚白 白布大袍袴 履革踏魏志夫餘伝)

(国にいる時の衣は白を重んじる。白布の大きな上着や袴で、革靴をはく。)

 日本で死に際して白装束をまとうのはそれが死を意味する色では無くて、本来は太陽信仰民族の証として冥土に旅立つための正装であったのではないか?弥生初期に太陽信仰の祭器である多鈕細紋鏡とともに、それを祭る者が着た白衣の文化が渡来し神聖視されたのだと思う。「シロ」が死や悲しみを表すようになったのは、その後の時代で中国の五行説の影響であり古来からの概念ではないと思われる。その太陽信仰を仲介したのが大陸や半島にも行き来していた日本の海人族の人々で、渡航途中の深い海の青から常世の国を連想し、「シロ」に対比した「アオ」を死後の世界と関連させたのではないだろうか。単純に考えても太陽信仰において「アカ・シロ」が太陽光線の最高の状態を示すものであり、全ての生物の生命の根源で生命力を表す色と考えれば、それに対比する「クロ・アオ」が生命の終末や衰弱を表すと考えるのも簡単だ。

「黒」も墓所と関係する

 その証拠に「クロ」も墓所・葬制と密接に関連している。安達ヶ原の鬼婆」伝説に取材した能の「黒塚」や太陽信仰と関連する三角縁神獣鏡を大量に出土した天理市の「黒塚古墳」、その他にも「黒田」と名のつく古墳名や所在地名は全国各地に多く存在するる。新潟県内では近年上信越バイパス工事で発見された上越市の黒田古墳群が有名である。黒名称が青地名に負けないくらい全国に古墳と関連して分布するのは有名な事実だ。このように「クロ」が太陽信仰と関連して光の強弱でつけられた終末の色名称であると考えるととても理解しやすい。

日本の色概念の変遷

 筒井氏・谷川氏とも触れれいない、なぜ青色地名と古墳・葬制が関連するのかは、太陽信仰と関連して考えるのが一番理解しやすいと思うが、全てが太陽信仰と割り切れるかとなると別問題だ。銅鏡を伴う太陽信仰が日本に入ったのは弥生初期だろうが、それ以前にも「アカ・クロ」の色彩対比概念は存在していると考えられるからだ。縄文時代でも「朱」が意図的に用いられているし、水銀朱を祭祀用に採取した遺跡も見つかっていることから「アカ」に対しては相当古くから生活や信仰と関連して用いられてきたことがわかる。これが太陽信仰と関連するかどうかはわからないが、少なくても朱彩土器が赤漆の漆器と同じように「アカ」の食器で食事をすることが「生命」を補強する行為だと考えられていたのではないだろうか。縄文期の記憶がある「アカ・クロ」は弥生期に多鈕細紋鏡と白衣を伴う太陽信仰に出会い、海洋民族がもたらした「シロ・アオ」で補強され、その後大陸の陰陽五行思想の色の概念に変わっていく。これが日本の色に対する概念の変遷ではないだろうか。

新潟県内の色地名

 新潟県内には「青地名」や「青伝説」、「黒地名」や「黒伝説」が多く分布していてる。谷川健一氏が主張する「海人族」の東漸の証である「青海」地名は糸魚川から柏崎加茂にかけて広く分布する。糸魚川市青海神社の祭神「椎根津彦命」は神武東征に従った海人であるというのが根拠になっている。谷川氏の「海人族」が柳田國男氏の海上の道を想定した沖縄南方諸島民族と同じとすることには多少のニュアンスの違いを感じるが、新潟県内の青地名の分布は海洋民族由来というには同意する。また、長岡周辺に多くある青木地名の木(き)の由来が上代の墓を意味する「城(キ)」に関係しているという筒井功氏の説にも同感する。

 恐らく、弥生期から古墳期にかけて県内には畿内王権の海人族関連の人々が進出して来たのは事実だろう。谷川氏の見解と違うところはその海人族が南方諸島由来ではなくて、太陽信仰を持った大陸由来だと思うところである。沖縄はむしろそうした古い記憶が残った地域ではなかったろうか。

 「青海」地名は太陽信仰をもたらした海人族が底知れぬ深い海の青を海の向こうにあるとされる常世の国と認識した結果だと考えるが、こうした太陽信仰との対比の関連では当地域の 三宅神社にも当てはまる。三宅の(ミヤケ)も本来の意味は、御(ミ)朱(アケ)であって色名に由来し、その根本の思想は太陽信仰であったと考えている。天之日矛命の祭神名やその妻神の阿加流(明る)比売神の神名も、辰砂を指すと思われる赤い石も全て太陽信仰を指し示している。金倉山山系にも美明山-黒倉と光の明暗に対応する地名が伝承されている。新潟県内の青海神社と三宅神社はともに太陽信仰を表す神社名だと考える。

 この他県内では、黒鳥兵衛伝説など格好の研究対象となる伝説伝承が数多く眠っている。色彩と信仰の関係はまだまだ奥が深くそう簡単には結論を出せないが、今後も研究を続けたい。