古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説


同じ穴の狢

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▲美しい古志の自然。左手の小尾根の削平地が主郭

 昨年末に城館跡と思われる金倉山山系にある未確認の遺構を古城址研究家のM氏と訪れた。その際に尾根上にある曲輪跡らしき大きな削平の下に、強大な円形の土塁跡が現れた。通常ならば城塞の防御施設としてそのまま素直に発見を喜ぶのだが、何かおかしいのである。(写真はすべてM氏提供)

 円形状に上下2個、上面の切岸と連携して一体に整形されたその土塁は、内部がクレーターのように凹んでいるのである。

 「池?」当地は錦鯉の産地で養鯉業が盛んである。その起源は江戸時代と言われているが、食用として真鯉を飼っていたのは記録に無いだけで相当昔から山間地の冬場のタンパク源として行われていたのは想像できる。

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▲ついに尻尾を現した団三郎貉の末裔。段の野面積みは新潟の山城遺構では珍しい。穴太衆の仕業か?

 私たちは当然その事が思い浮かんだ。だが「池」と単純に割り切れない思いがある。それは尾根上に池を作るのは水利の点で不利であること。配水用の黒ホースが簡単に手に入る現代ならいざ知らず、沢筋から何十メートルも斜めに水路を掘るのは至難である。おまけに水路を確保するためには沢筋にダムを作らなければならない。二度手間である。万が一池として作られたとしても、今度はその目的が不明である。食用の真鯉育成用だとしたら、集落まで距離がありすぎて運べない。耕作地の水利用だとするには下部に配水するべき耕地がない。

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▲窪地状土塁のただならぬ気配に恐れをなして逃げ出す団三郎貉の末裔(笑)

 こうした常識的な思いのほかに、「何かがおかしい」という思いを見た瞬間に強く感じた。「何かがおかしい」それは通常の城砦遺構を見慣れてきたからこそ感じる違和感、普通の物理的施設が持たない精神的・宗教的な感じ、山奥の人目につかないところにひっそりとある石仏や石祠、石塔の周辺に感じるような空気の重さ。それを感じたのである。

 M氏もやはりそれを感じたらしく、このすり鉢状の円形土塁が宗教施設ではないかと盛んに言ってきている。この地のは、まだ人目にふれないこのような「穴」に起因する遺構が数多く眠っているのは確かである。

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▲石組みの露出した二重土塁 大規模な土木工事は団三郎狢の得意とするところ 

未確認の遺構なので行政に確認調査をお願いしたが返事はなし。

 

日本三名狸「団三郎貉」は古志郡六日市村の産

 地元の城塞遺構を踏査するにあたり、石坂与十郎という地元の戦国武将を検索した。その中で、柳田國男「一目小僧その他」の項目とともに石坂与十郎を記載しているサイトが目に止まった。柳田國男「一目小僧その他」と石坂与十郎の組合せは「団三郎貉」だと直感した。それも、相当深く研究している人物だと容易に想像がつく。

 上記のサイトを拝見すると管理人さんは書籍の後書きに名前が載るような文化人であった。私のような気まぐれな駄ブログを書く人間とは訳が違う。「団三郎貉」に興味を持ってもらって本当にありがたいと思った。地元の情報が欲しいという管理人に連絡を取り資料を送付させて貰った。

  そんな訳で兎にも角にも地元には日本三名狸「団三郎貉」は古志郡六日市村の産であるとの伝承が残っている。地元の小学校の昭和11年の「郷教育資料」に記載されている。また柳田國男は「一目小僧その他」の「隠れ里」の中で温故の栞記載の伝承以外に、年代や実名まで出して六日市村の伝承を紹介しているが、その部分の出典は不明である。柳田は長岡の他にも小千谷にも来ているから、恐らくは直接採取した可能性が高い。

  柳田國男が「団三郎貉」を偏愛と言えるくらい取り上げていて、「隠れ里」で六日市村の団三郎貉伝承を紹介しているのを、長岡市内でどれくらいの人が知っているだろうか?ほとんど皆無だろう。また柳田國男は長岡を訪れた際の印象をよく書いていない。民俗文化に無理解な風土を敏感に感じ取ったのだろう。

ムジナ(貉)は聖獣

 ムジナは人を化かすというということであまり良いイメージは無いが、柳田が偏愛し全国的にもファンが多いのは、貸し椀伝説にあるような人情に厚い慈善事業もしたからだろう。個人的には田中角栄氏のイメージとダブルところがある。新潟県人気質全開で茶目っ気があり憎めないキャラである。

 しかし本来ムジナは日本の至宝「八尺瓊勾玉」を生み出した聖獣である。日本書紀の垂仁段には牟士那(ムジナ)の腹から「八尺瓊勾玉」が出たとある(追補参照)。さらに延喜式治部省式祥瑞条には中瑞として「玄貉」(クロムジナ)が記載され祥瑞動物として扱われている。

この「八尺瓊勾玉」は越後国風土記逸文

越後国風土記曰、八坂丹玉名、謂玉色青、故云青八坂丹玉也」

とあり新潟県産出のヒスイの勾玉であると書かれている。その八尺瓊勾玉」を生み出した牟士那(ムジナ)とはどういう存在だったのだろうか。

 山形県新潟県の県境にある鼠ヶ関の「鼠」や弥彦伝説にある刈谷田川の「九鵙(くもず)」越後国風土記逸文の「八束脛」、あるいは記紀に登場する「土蜘蛛」「国栖人」などと動物名等で呼ばれる人々は、遅くまで朝廷に恭順しなかった地方に拠る国津神の子孫たちを示す名称である。牟士那(ムジナ)と呼ばれた人々も同様だろう。三種の神器のうち「八尺瓊勾玉」だけが金属器でないのは、それが大陸渡来ではなく日本古来の国津神の祭器を引き継いでいるからだ。新潟県は皇室に至宝を献上した古の国津神王国ということになる。

 また同様なことが団三郎の名称からも窺える。

魔性の三郎

 この地には団三郎の他に弥三郎婆の伝説があるのは過去に書いた。全国的には風の三郎、甲賀三郎、伊吹弥三郎などの多くの「三郎」が存在し、全て魔性の者として伝承をされている。「三郎」伝説は日本古来の国津神である山の民が母系制を採ったことによる末子相続制の比喩の現れだろう。その末子が魔力を持つというのは国津神である山の民の習俗が新興の渡来文化を背景とする天孫系にとって手強い競争相手であったことに起因するのでないかと思う。

 国津神の主宰神とされる大国主命記紀の説話は、末子成功譚としても知られる様に末子相続の習俗を色濃く反映している。同様に海幸彦山幸彦の説話も弟が最終的に権力を握るという設定である。またこの説話に共通なのは呪法として道具を使うことがあげられる。大国主命では「蛇の比礼、呉公と蜂の比礼」、海幸彦山幸彦では「潮満瓊・潮涸瓊」が登場する。それまでは「穴籠もり」「禊」「うけい」「柱の周りを回る」といった原始的な人間の「行為」が呪法であったのに対して、呪法として一段進んだ「道具」の使用は先進的な呪術文化の受容を意味する。

 この先進的な呪法を天孫系に先駆けて受容していたという記憶が国津神の末裔である三郎に魔性を与えた根源だろう。そしてその先進的な呪術文化とはおそらく黄巾や呪符の道具を使用する「道教」である。他にも仙境訪問譚と呪術行使、降伏儀礼に見られるような明らかに道教の影響と思われる記述ははなせか海人より山人の方が強い。

 「あま=天=海人」であることから考えて古代の日本では一時期「天孫系」と「海人族」が同一視された時期があると思われるが、通常考えれば進んだ大陸の文化を受容するのは海上交通を掌握する「海人族」の方である。だが、大国主命や海幸彦山幸彦の説話では逆である。これは受容の仕方が通常の大陸との交易とは異なっていたこのと表れではないか。つまり「山の民」に向けてピンポイントで特定の目的を持って「道教」が放たれたことの証ではないか。秦の時代に蓬莱山を目指して3000人男女を持って放たれたと言う「徐福伝説」は日本各地に存在するが、特にゴトビキ岩や花の岩屋などの磐座祭祀のメッカで「山人」王国である熊野地域に伝わる徐福伝説は上記の可能性を強く示唆する。またその後同地域では役小角が現れ道教と仏教を集合し修験道を形成していくが、その成立過程を見ると平野部の仏教に先行して山間部に道教が存在していた可能性が見てとれる。(日本霊異記役小角は生まれながらに博識で三宝に帰依し道教の仙人となることを願っていたとある)

女王国の本質

 それではなぜ、秦の道士たちは日本を目指したのか、それは不老不死を目的にする道士たちにその当時の日本がよく適合したからだろう。母系制の縄文時代が1万年も続いたのはエデンの園状態が良く保たれた証である。理性や知性、倫理は無いがストレスもない。野蛮だが争いのない平和な社会。自由恋愛でノンストレス、長生きしない方が嘘である。老荘思想の理想そのものである。魏志倭人伝の「其人壽考、或百年、或八九十年。 」(人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。 )はそのことを指しているのだろう。
 中国人の母系社会への思慕は女媧伝説や西王母伝説、老子の一節「谷神不死 是謂玄牝玄牝之門 是謂天地根」にはっきり表れている。当時の日本は縄文由来の女王国だったが、これは縄文由来の山の民の習俗である。これは日本独自のものではなく狩猟採集社会の旧石器時代は世界中遍く母系社会だった。各地で出土する地母神信仰のヴィーナス像はその証である。しかし、大陸ではその後、遊牧民起源の略奪闘争を目的とする父系制が浸透し、理性と知性、自他を区別する血統が重視され殺戮とホロコーストが繰り広がれられた。略奪闘争は我々に理性と知性を与え文明を産んだが、不自由と殺戮という強烈なストレスを与え人々は短命になった。まさに失楽園である。

  縄文社会の母系制は、日本中の全ての男性が国々を放浪して子孫を残している大国主命の様な状態で、自分の子供がいるかもしれない他地域とは戦争などできるはずもない。一方女性の方も港港に女を作りいつ帰ってくるかわからないフーテンの寅さんの様な旦那を当てにするわけには行かない。多くの貢物を他地域からもたらす男性を訪来神として受け入れ、複数の系統の子孫を残していったのだろう。大国主命と奴奈川姫の婚姻説話もその反映だろうし、魏志倭人伝の伝える「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。」身分の低い者でも2〜3人の妻を持つという記述は、人口構成比から言って成りたたないが、多夫制やグループ婚の視点からは十分に成立する。弥生時代の日本の婚姻制度は母系制を強く保持していた表れだろう。

 また、古事記の伝える天之日矛伝承に登場する難波の比売碁曾の社の阿加流比売神とその母親の記述も母系社会の特質をよく伝えている。特に女神の母親が「卑しい女」とされるのは注目に値する。古今東西神々の出自が「卑しい女」であるとは聞いたことがない。これは零落した女王国の巫女の姿であるに違いない。巫女=遊女である事は多くの民俗研究家の指摘するところであるが、母系社会はこうした自由恋愛が当たり前であり倫理的にも認められていたのである。

 こうした習俗のもと、多くの貢物をもたらす男性訪来神を頻繁に受け入れる平和な状態では女王国は成立するが、父系制を基盤とする戦闘民族と出会うや否や女王は経済基盤を失い権威のない遊女へと零落する。これが古事記の伝える本質である。

 倭国大乱以前の日本は大陸から文化的に隔絶していたため、道士達が理想とする母系社会がより強く残っていたことが「山の民」に道教がダイレクトに伝播した理由だろう。「山の民」が出自である末子「三郎」が魔性の者と呼ばれる理由は、このように強い呪術性をもつ道教を先行して受容した山の民への畏怖がある。その為「三郎」には道教と共に受容した金属神としての性格や磐座の装置である「穴」伝説が付きまとうのである。

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日本の古代信仰変遷 多分こんなんだったんじゃないかな図

 穴師の系譜

 日本で道教を受容したのは山の民が先行した可能性が高いが、それの橋渡し役となったもう一つの渡来氏族が秦氏だ。現在では秦氏と金属神アメノヒボコ命の関連は濃厚でほとんど確実とされているが、アメノヒボコ命が本当の祭神ではないかという説のある穴師兵主神社の旧鎮座地は「弓月岳」とされる。応神期に渡来したと伝える 秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔「弓月君」と同名なのは偶然ではないだろう。ちなみに秦氏と縁が深いと言われる平安時代陰陽師「安倍 晴明」は難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もあるとされるが、難波吉士は六日市三宅神社の祭神、波多武日子命の後裔とされる。金属神アメノヒボコ命と穴師の関係は鉱山土木技術の伝来を伝えているのだろうが、山の民の盟主「大国主命」にも穴神伝説が付きまとう。おそらく縄文時代の穴神信仰は地母神信仰と同一で鉱山土木技術とは無縁だったろう。しかしそこに道教や鉱山土木技術をもたらした渡来集団が、当時の日本の母系社会への志向が強いため上書きされバージョンアップした、これが地母神信仰の穴神が神道の磐座信仰へ進化した原因と思う。

 その後戦国期に至って活躍した近江の石工集団、穴太衆は渡来人の末裔とされ、「穴太衆石積みの歴史と技法」の中で大阪芸術大学教授の福原成雄氏は「「新撰姓氏録」には,穴太の地を包括する大友郷や,その南に隣接する錦部郷,そして古市郷では,穴太村主氏や大友村主,錦部村主などの渡来人が穴太や周辺一帯に居住したことが記されている。」と述べている。古墳の築造や石棺の制作に携わった穴太の民も土木技術を持って渡来した人々だったのである。

地母神道教=鉱山 団三郎の実体

 団三郎の実体は地母神信仰を基盤に持つ母系制を伝統とする「山の民」が「道教」を受容し、土木や鉱山など大陸渡来の技術を駆使したハイブリッド集団である事はまず間違いない。倭国大乱の前に天孫系に先行し対抗した記憶が団三郎に魔性を与えたが、本質は土木工事に秀でた穴掘り職人集団である事は明白である。古志郡夜麻郷は奴奈川媛を盟主とする山の民の王国であるが、そこに初期秦である波多武日子命とアメノヒボコ命を奉祀する集団が来臨し天孫系に拮抗する強固な王国を作った。

 神倉山は還元率の高いアカメ砂鉄の宝庫で柔らかい安山岩の釜沢石を粉砕して直接鉱石として使用した。その最活躍したのが土木・鉱山技術者の「団三郎」である。還元率の高いアカメ砂鉄は鋳造には向くが鍛造には向かない。武士階級の隆盛とともに粗悪な鋳鉄は見向きもされなくなり廃れていく。それとともに六日市村の団三郎も零落し、村人から追われる存在となったのである。

 その後金鉱の隆盛と共に佐渡に渡った団三郎は、再び土木・鉱山技術者として隆盛し、日本三大狸として名を成し世に知られるように成ったのだろう。

 

日本の法曹界を揺るがした「たぬき・むじな事件」

 普通、人は日本三名狸というのに「貉(むじな)」というのはこれ如何に?と思うだろう。この用法の混乱は刑法の根幹に関わる大事件「たぬき・むじな事件」を呼び起こす原因となった。

 狸と貉が同一かそうでないかで最高裁まで争われた事件である。現在の一般の共通定義では狸はイヌ科の哺乳類一種のことを指し、狢はイヌ科のタヌキあるいはイタチ科のアナグマの異名とされている。世界大百科事典では「瀬庄三郎によれば,東京以西では動物学上のタヌキを正しく〈タヌキ〉と呼ぶが,これは比較的新しいことばであり,古くはタヌキを指してムジあるいはムジナと呼び,アナグマをマミあるいはササグマと呼んだという。しかし,これは必ずしも確かではなく,タヌキとアナグマの双方をムジナとい呼ぶ地方もある。」とあるが、要は地域によって狸と貉は同一視されてきたということである。

 「たぬき・むじな事件」の被告はその辺の日本の伝統習俗事情に精通し、初めから準備周到警察からの告発を狙って仕掛けたのではないか。そうでなければ、狸一匹のために最高裁まで行き経費も時間も無駄にする理由がまるでわからない。最高裁判事を化かすことだけを目的にした名狸の末裔なのかもしれない。

  この地域でも上記の分類に同じく、狸と貉は同一と一般的には思われて来た。ただ猟師たちだけは、狸は不味いが貉は美味いくらいの差は感じていたようだ。いずれにせよもはや貉という言葉は若年層には通じない死語となっている。

 

団三郎狢の後日譚

 「山怪」 山人が語る不思議な話  山と溪谷社 が人気である。佐渡に渡っていなくなったはずの団三郎狢であるが、その地霊はまだ当地に強く存在しているようである。

次回その後日談を紹介したい。