古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

鬼伝説と洞窟信仰(新潟県中越地方)

新潟県内の鬼伝承

 新潟県内では多くの鬼伝説が伝えられている。特に酒呑童子茨木童子、弥三郎婆、猫又等は特に有名な伝説だ。

 酒呑童子茨木童子については全国に出生伝説があり、源頼光等による大江山の鬼退治の説話が有名なため関西発祥の伝承で新潟県は無関係のように思われるが、どういうわけか県内の伝承・伝説は他の地域よりも色濃く残る。伝承密度は恐らく日本一だろう。

 酒呑童子は弥彦周辺の岩室町和納、国上寺周辺の分水に出生伝説が地元に伝わり、今でも童子屋敷・童子田など地名や、自分の姿を映したという「鏡井戸」の井戸名としてその事跡を残している。

 また出生地に新潟県が関係する決定的な根拠として、大江町における唯一の大江山鬼退治伝説にまつわる古資料、鬼茶屋本「大江山千丈ケ獄 酒呑童子由来」に「酒呑童子は越後の国 蒲原郡中村の百姓の子なり。」と記載されている。

 

  地元でも近年「鬼」伝説についての関心は高まっているように思える。

下は昨年の燕市の広報紙の特集

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下は県立歴史博物館の企画展パンフ

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博物館の怪談 ~新潟の妖怪と妖怪博士・井上円了

2011年4月23日(土)~6月5日(日)

新潟県では酒呑童子や河童、人魚など数多くの妖怪にまつわる伝説、奇談が伝えられています。 また、哲学者、宗教学者東洋大学創立者でもある井上円了(旧越路町出身)は日本で最初に妖怪を科学的に研究したとして知られており、妖怪博士とも呼ばれています。 新潟県の妖怪と井上円了について紹介し、新潟県の人々と妖怪との関わりやそこから見える自然観などを紹介します。

 

 

新潟の鬼に共通する洞窟信仰

  新潟を代表する鬼伝説である、酒呑童子茨木童子、弥三郎婆の伝承には不思議な事に洞窟説話が必ず付随する。

 

◇弥三郎婆の洞窟

 弥三郎婆は「鬼婆」として地元長岡市「三宅神社」に伝わるの「鎮窟」を隠れ家としていたという伝承があり、同じく魚沼市の権現堂山、長岡市小国町の八石山に同様の洞窟伝承がのこる。

f:id:koshi-miyake:20151201090132j:plain 三宅神社に伝わる鬼の面

f:id:koshi-miyake:20151202175950j:plain 鬼婆が住んだ鎮窟「鬼の穴」

 

酒呑童子の洞窟

 外道丸が鬼の姿に変わった自分の姿を見て狂乱して籠った「断崖穴」があり、窟籠りのあと酒呑童子を名乗ったという

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茨木童子の洞窟

 旧栃尾市の軽井沢に出生伝説を持つ茨木童子には、付近の鬼倉山に酒呑童子とともにたて籠った「鬼の穴」が存在する。

以下、栃尾観光協会からの引用である。

「鬼倉山」(海抜617M)と洞窟
 鬼倉の中腹に、酒呑童子と共に暮らした岩屋が現存する。しかし南向きの絶壁にあり人が近づけない所であり、窟の広さは六畳くらいの広さで、明り取りの小窓もあるという。昔、鬼倉は、山肌を露出した石山であり、沢で砂金もとれ、六才石(水晶?)と金が採掘されたという。

窟籠り
 酒呑童子が国上寺の住職に破門された後、しばらくは軽井沢の童子屋敷内にあったという窟に居候し、その後、鬼倉の窟に移り住んだという。「窟」とは、山中他界観の信仰対象でもあった。窟は霊が集まる場所として信じられ、それゆえに窟籠りは霊と交わり、霊力を身につける修行として重視された。二人が学んだものは「邪法」であり、最強の霊力を手に入れた。

 

 前置きが長くなったが、人が近づけないとされた鬼倉の窟に先日の日曜日に訪れた。

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 現場は鬼倉山に至る南尾根道の下150m付近。伝承にあるような断崖絶壁ではない。地元の人の話では炭穴としても利用したとあるから、断崖絶壁にあったとは考えにくい。また鬼倉山南斜面は尾根続きで断崖にはならない。断崖があるのは西側で遠望した感じでは洞窟の存在は確認できなかった。

 洞窟の入り口は写真のように左右1.5m、高さ90cmくらいで狭いが中は、地面が掘削されたいて結構広い。六畳まではいかないが二畳以上の広さは優にある。明確なのは地面を掘削した痕跡と天井にある巨石の表面を研磨した様子である。写真下の2枚は右が巨石の表面で左が洞窟内の天井石である。

 もう一つ気になる事は、洞窟の天井石となる巨石の上20mくらいにもう一つ3倍くらい大きな巨石が峻立していることである。これは前回紹介したチンカラリンと同じ磐座と隧穴のセットである。写真上の左側で確認頂けるが洞窟の天井石は奥の巨石が剥離して落下した物だと考えられる。その後の地面を掘り起こして天井の凸凹を研磨したのだろう。尚付近にはこれ以外の巨石は存在しない。

 前述の栃尾観光協会の解説「窟籠り」で触れられているが窟が霊が集まる場所として信仰されたのは事実だろう。新潟の伝承で酒呑童子が16ヶ月、茨木童子が14ヶ月胎内に留まり生まれたという話は、この窟籠りの比喩ではないだろうか。密教系の修行でも「堂籠り」や「山籠もり」が行われるが同じ脈絡で考えられないだろうか。

 実際、鬼倉山の洞窟内に入ってみたが、中は水が涌き出す湿った環境で長時間滞在するのは難しい。面白い事に巨石の割れ目から明かりがさし伝承の明かり取りの窓を実感する事が出来た。また、入り口が狭くて中が少し広いのは母体の構造を再現した物だと感じた。チンカラリンの穴は「女陰」の象徴であると推論したがここでも全く同様な感触を得た。また、すぐ近くにある巨大な岩は恐らく磐座として機能し男性機能の象徴として信仰されてきた物であろう。

 f:id:koshi-miyake:20151202170615j:plain 鬼倉山に至る登山道

 前にも述べたが鬼倉山の山中道で巨石が確認できたのはここだけである。写真を見た頂ければ解るが山体は土と樹木で覆われたごく普通の山である。鬼伝承のある洞窟にだけ巨石があるのは偶然では無いだろう。それでは、新潟県内にチンカラリンの伝承を残し、多くの鬼伝説を残した主体は何かそのヒントを鬼倉山の隣の五百山で見つけた。

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 五百山の山頂には自然石で北斗星と書かれた石碑がある。五百山の五百とは鋳物の「いも」と同音で製鉄に関連した地名である。付近にはそうした製鉄関連地名が豊富にある。茨木童子が生まれた栃尾軽井沢の軽もマサカリと同音の朝鮮語「カル」を起源とする製鉄地名という説もある。北斗信仰もまた製鉄深い繫がりを持つと言われている。

 たかだか地名と製鉄が関連するだけで何の根拠になるのかと疑問に思う人も多いと思うが、近年長岡市の隣の柏崎市で奈良から平安時代にかけて日本最大の製鉄コンビナートが発見された。その遺跡の名前は「軽井川南遺跡群」で製鉄地名である「カル」が入っている。

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新潟県内にまさか日本最大の古代製鉄コンビナートが存在するとは誰も考えなかったと思う。八岐大蛇伝説や鬼伝説・チンカラリン説話が製鉄という側面でリンクしてくるのは事実だろう。今後は巨石祭祀と隧穴信仰の主体を少し考えて行きたい。