古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

三宅神社の社殿

六日市町 三宅神社二座

新潟県長岡市六日市町1775
御祭神 波多武日子命・天美明

 

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 現在の六日市三宅神社二座の社殿は明治二年に築営したもの。明治二年の「三宅神祠ノ記」によれば、その前の社殿は1712年(正徳二年)に現地で築営されたものらしい。現在の社地は三宅大連当虎が活躍した時代には移転していたようである。またそれ以前の社地は現在の社殿の東100mくらいの小高い丘の上に有ったようである。当虎の墓所も同じ所に存在する。(下記写真参考 岡南の郷土史より)

 社伝によれば、往古から幾多の社殿の遷座が記載されているが、古い神道形式そのままに神体山を崇拝する要素が強いため、実際固定的な社殿を持ってこなかったのだろう。そんな古い形式の神道がこの地に実際に営まれてきたかどうかについてはまた後ほど詳しく検討したいが、他の県内の神体山を持つ式内古社の伝承が一様に平安期に平地に社殿を遷座したと伝えるのは偶然の一致だろうか?

 現在の社殿中心信仰からでは想像もつかないかもしれないが、むしろ社殿を持たない方が古い形の信仰形式であるという。当地でこのように古い神道の可能性を持つ形式が見られるのは不思議であり、地域の財産でもある。

 

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六日市町 三宅神社二座のシンボル「鬼の面」  榊の根もとに集まる境内社

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神官だった星野家の旧邸宅跡       背後の山が旧社地、下図参照

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岡南の郷土史より

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中潟町 三宅神社

(登記上は宇都宮神社 経緯については下記参照)
新潟県長岡市中潟町556
御祭神 天日鉾命(登記上は波多武日子命)

 

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 現在社殿は昭和6年に改築されたもの。それ以前の社殿も当地に有ったようであるが、規模は現在と比べてもかなり小さかったようである。境内の左手には縄文晩期の遺跡があり、境内からも遺物が出る。昭和の初期までは境内前の水田は全て桑畑であり、縦穴住居の窪みも確認出来たという。
 また聞いた話では社殿がある場所はもともと盛り上がった地形で、小高くなっていたとのことである。縄文晩期から続く弥生時代の周溝墓でもあったのだろうか。社殿の基礎部分の石垣はその名残だと思われる。
 立地する場所は金倉山から流れる土座川が作る扇状地の最上部で、金倉山を遥拝するには最適な場所と考えられる。三社の中では唯一西向きで金倉山を拝む形になっている。現在の場所に遷座したのは、御神木の年輪から推定すると1400年前後で、市文化財の「観音像」の出土伝承(寛正年間)の頃と一致する
 15世紀周辺は市内にある中世集落遺跡でも最盛期であり、この時期に現在の社殿による祭祀形式が定着したものと思われる。ただし、六日市の社殿の場合は遷座の遍歴が明白であり、過去に祭祀場所が山中に有った可能性は濃厚であるが、中潟町の三宅神社の場合はそれ以前の祭祀場所が、社伝の言う様に山中にあったのか、あるいは現在の場所で長年継続して祭祀されてきたのか明確にはわからない。
 県内の他の式内社でも神体山の伝承を持つ神社は、中世に山中から麓へ遷座したと言う伝承が多い。
中潟町の場合も麓の平場は、縄文時代の遺跡に比べ古代〜中世の遺物密度があまりにも低い。式内社の古志郡筆頭社として一定の勢力が有ったと考えられるが、その痕跡が現在のところ希薄なのである。今後その辺の疑問が解消出来るように研究していきたい。
 境内には多くの石祠やお堂がある。石祠は町内各地に有ったものを合祀したものである。多くは個人で祭祀されていたものである。左手にあるお堂は「目の神」のお堂である。これも昭和初期には三宅神社参道の個人敷地に有ったお堂を移したものである。

 

 

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 平成16年の「中越地震」は当神社にも壊滅的な被害を及ぼした。鳥居や石灯籠、狛犬、本殿が倒壊、破損した。今は立派に再建されたが、残念なのは再建された鳥居の社額が「宇都宮神社」になってしまったこと。これは、伝承されて来た「社号」と「神号」を間違えて宗教法人の登記をしてしまったことに端を発するようだ。人間は過ちを犯す存在であるが、一番の問題は地元での経過を知らないで「三宅神社」が「宇都宮神社」と固定化されてしまうことである。祭神名についても同様である。これが積み重なって「社号」も「御祭神」もわからなくなってしまう、全国の今の状況が生み出されてしまう。恐ろしいことだ。
 その辺の経過を明らかにし訂正していくことは後世に対する義務だと考えるが、下記の写真は中潟三宅神社が「三宅神社」と呼ばれて来た物証で、寛政10年(1798年)に奉納された祭礼旗である。
当時の祭神は「天日鉾命」で「三宅神社宇都宮大明神」と称し「三宅ニ座大連」がこれを書くとある。
 おそらく、近郷の式内社を取りまとめて活躍した三宅大連当虎自身の揮毫だと思われる。

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妙見町 三宅神社

新潟県長岡市妙見町215(字南田)
御祭神 大彦命

 

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 現在の社殿は昭和15年に改築されたもので、明治・大正・昭和(終戦迄)六日市村の村社として奉祭されてきた。以前あった御神木の年代から相当以前から現地で祭祀されてきたのは確実だと思える。
昭和59年には金倉山山頂に奥の院の石碑を建立。中越地震で他の町内の神社と同様に激しい被害を被ったが現在は復旧している。

 地震以前には参道の左側に立派なケヤキの御神木が存在したが、空洞化した木の中で子供の火遊びが原因で出火。その冬の雪害で全体が倒壊してしまった。御神木の左側に上越線が通っていて、ちょうど電車が通過した時に倒れたらしく電車に被害が出たと新聞で報じられた。御神木自体に罪は無いと思うが、たしか補償問題まで発展しかねない勢いだったと記憶する。線路や道路が神社周辺に集中すること自体が当地が交通の要衝だということを物語っている。
 その後、御神木の残った部分は木材業者に結構な値段で引き取られたと聞くが、今は跡形も残ってない。子供の頃よく遊んだ御神木付近は夏でも鬱蒼として涼しく恰好の遊び場だった。大切なものは失われて初めてその価値に気がつくものでたいへん残念なことである。

 また、東側の山中の入口付近には「王塚」と呼ばれる塚があるが、残念ながら古墳ではないとされている。中世に分姓した社家の三明梶元の関連のものではないだろうか。社額の下のしめ縄が珍しい形だと思う。現在は氏子が各神社伝来の形で共同で制作しているが、いつまで続くだろうか。農業の機械化とともに稲藁の需要が激減して原材料自体が手に入らなくなっている。大切な伝統文化が断絶するのはとても切ない。また境内には伝説を伴う「力石」、合祀された石祠等が多数ある。

 

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