古志郡 三宅神社 伝承と祭神の研究

三宅神社に古くから伝わる伝承と多くの謎を通して地域史を考えます。

『謎の百塚』と太陽信仰・行者の道-2

三宅関連文字資料出土遺跡分布 長岡南部ー小千谷は太陽信仰の集積地 前回の『謎の百塚』と太陽信仰・行者の道-1では、長岡南部から小千谷市にかけて朝日夕日の太陽信仰伝説とそれに関連する百塚が存在することを紹介し、太陽信仰の場所が古くは古墳等の墓地…

『謎の百塚』と太陽信仰・行者の道-1

温故の栞 朝日百塚挿絵 行者の道は鳥に関する地名や岩に関する地名に付随して全国各地に見られると「山の民・川の民」(井上鋭夫)の序文で石井 進は指摘する。しかし、その地域に固有な歴史的宗教的な背景を持たずに突然「行者の道」が出来上がるとは考えに…

長岡-小千谷東山『行者の道』の行道を考える

行者の道 行道推定図 長岡-小千谷東山『行者の道』の領域 上の画像は国土地理院の赤色立体地図に、前回引用した井上氏説の行者の道に関連する地名山名を加筆したものである。赤色立体地図は尾根筋が白く抜けてはっきりとたどることが出来る。行道は尾根筋に…

長岡-小千谷東山『行者の道』

東山地区の行者の道 長岡の東山から小千谷市の東山にかけて、中世「行者の道」を想定したのは昭和44年発行の小千谷市史の編纂委員で当時新潟大学人文学部教授の井上鋭夫氏である。以降、山古志村史・長岡市史双書にも引用されている。小千谷市史から該当する…

三宅神社二座の座数について

延喜式記載の「座」の意味 古志郡三宅神社は延喜式神名帳に「二座」と記載されている。延喜式で言われる「座」とは神社に鎮座する神の数のことである。 延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2,861社で、そこに鎮座する神の数は3,132座である。(…

性差(ジェンダー)の日本史展に寄せて

私は行けなかったけれども、国立歴史民俗博物館の企画展『性差の日本史』がコロナ禍であるにも関わらず大盛況で、12/6閉幕したと産経新聞はじめ各マスコミが報道した。お堅い国立歴史民俗博物館の企画展がこれほどまでに反響を呼んだ原因はなんだろうか。 一…

古代古志郡の石を祀る人々

平成二年の調査で「沼垂城」の文字が書かれた木簡が出土し、一躍全国的な注目を集めた長岡市和島の八幡林遺跡では、他に「石屋」(いわや)あるいは「石」の文字が書かれた墨書土器が奈良から平安時代にかけて長期にしかも大量に出土している。中には郡の長…

アマビエ起源の謎 再考

前回まとめきれなかったので、再び出現地別の年表にまとめてみた。 これからわかることは、ほとんどが摺物として江戸市中で出回ったものということ。 すなわち出現地と流布地が別々なのだ。したがって、現地には伝承も地名も残っていない場合がほとんどであ…

アマビエ 新潟起源説の謎

国立歴史民俗博物館「歴博」第170号 2012年1月30日より 「海出人之図(越後国福嶋潟)」江戸時代 国立歴史民俗博物館蔵 世界中がコロナ禍に襲われた2020年。 私は今年の県内の小雪をいい事にずっと新潟県内の山城遺構を訪ね歩いておりました。世の中の自粛ブ…

奴奈川姫の産所 磐座と女性原理

奴奈川姫の産所 全景 奴奈川姫の産所 今秋2度目のトライでようやく能生町にある「 奴奈川姫の産所」という旧跡を訪れることが出来た。場所がわかりにくく前回春に訪れた時はかなり手前の道で曲がってしまい挫折していた。 今回は現地の人に聞きながら訪れた…

古志の棚田 異見

今年7月、歴史を同好する碩学の大先輩T氏と上越市〜糸魚川市を訪れた。目的は弥生〜古墳時代の県内屈指の斐太遺跡を見ること、合わせて周辺にある式内社を訪れることだった。弥生時代の竪穴式住居後が窪地として現在でも観察できる稀有な斐太遺跡は、何度訪…

芒と萩の結界 古志のお盆

旧古志郡地域のお盆の風習 今年も暑いお盆がやってきました。昨日の気温は高田で40度超え。新潟県内のお墓まいりは8月の13日。夕暮れになると提灯をぶら下げてお参りします。陽が落ちて、木々の梢や葉っぱにお供えのロウソクの光が照り返すのはとても風情が…

古志の冥界を司る「青の系譜」青木長者伝説

元共同通信社記者で在野の民俗学者、筒井功氏の著書「『青』の民俗学」(地名と葬制)『2015]に次のように書かれている。 信濃川氾濫原の青地名 新潟県長岡市青島町と、その北東一キロばかりの青山町は、ともに日本屈指の大河川、信濃川右岸(東岸)沿いに…

古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説 追補

インカのマチュピチュ遺跡ではない。1970年代の金倉山遺構周辺の空撮。 三郎について [甲賀三郎の物語(柳田國男)より引用] 「三郎も八郎も元はともに末弟の最も優れていたこと意味したらしいのである。」 「世界に類例の多い末弟成功の説話は、日本では…

古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説

同じ穴の狢 ▲美しい古志の自然。左手の小尾根の削平地が主郭 昨年末に城館跡と思われる金倉山山系にある未確認の遺構を古城址研究家のM氏と訪れた。その際に尾根上にある曲輪跡らしき大きな削平の下に、強大な円形の土塁跡が現れた。通常ならば城塞の防御施…

穴籠りの呪術と磐座_1

新潟は今積雪シーズンの真っ最中。昨年訪れた遺跡や伝承地は特に豪雪地帯として有名な中越地域の山間部なので小雪と言われる今年でも1〜2m雪が軽く積もっている事だろう。 小千谷市ほんやら洞祭り さて、昨年は地元の巨石祭祀と窟・隧穴信仰の伝承地をいくつ…

鬼伝説と洞窟信仰(新潟県中越地方)

新潟県内の鬼伝承 新潟県内では多くの鬼伝説が伝えられている。特に酒呑童子、茨木童子、弥三郎婆、猫又等は特に有名な伝説だ。 酒呑童子、茨木童子については全国に出生伝説があり、源頼光等による大江山の鬼退治の説話が有名なため関西発祥の伝承で新潟県…

チンカラリンとトンカラリン(磐座信仰との関連性について)2

弘法大師の石と「穴」 地元に江戸時代の絵図に記録が残る「大石」という巨石がある。この大石には全国各地にある弘法伝説が伝承されている。 伝承内容はこちら↓ 旧HP「神名倉山周辺の岩石信仰」 六日市町 「大石」全景 表面の杖・足跡と言われる「穴」 線刻…

チンカラリンとトンカラリン(磐座信仰との関連性について)

前回から引き続いて チンカラリンとトンカラリンの類似性と起源について考察したい。 チンカラリン穴のある長岡市蓬平の風景。中越地震の山古志と同じ地域にあり右手がチンカラ山 新潟チンカラリンと熊本トンカラリンの文献記録 新潟県長岡市の東山周辺の「…

巨石祭祀とチンカラリン (熊本トンカラリンとの類似について)

長岡市蓬平の「チンカラリン」の穴 同「大割れ石」(2015.10.3撮影) 【よもぎひらの伝説】(蓬平/小高氏作成) ▲温古の栞(明治26年)抜粋 長岡市東山地区にはチンカラリン伝説が複数存在する。文献的に古いのは江戸時代の記録がある旧栃尾市一之貝にある建…

三宅神社関連資料1  文献年表

762年(天平宝字6年) 造石山寺所関係文書 3月13日 越後国仕丁丈部得足・三宅人領、造石山院所から逃走する (柏崎市史資料集 古代中世篇) 784年(延暦3年)続日本紀 蒲原郡の人三宅連笠雄麻呂、稲10万束を貯えて飢者に食を与え、道橋を修造したことにより、…

三宅神社の社家

三宅神社二座 当社旧記古證 附記一、大彦命妙見村鎮守 三宅神社宇都之宮大明神 社守 三明梶元 和今稗生村仁落山伏止奈利観請院止号 惣鎮守仁宇都之宮於観請須一、天日鉾命中片村鎮守三宅神社宇都之宮大明神 社守 的場崎 平岡乃治部 和今村仁居百姓止成居須 …

三宅神社の関連社

『小丹生神社』 新潟県見附市熱田町字宮ノ浦541 御祭神 波多武日子命 天美明命 須佐之男命 越後國古志郡 小丹生神社 式内論社 下記に掲載した社伝によれば、三宅神社の伝承と同じく波多武日子命 天美明命 の二神が越の川東、金倉山に鎮祭したとの記述があ…

三宅神社の社殿

六日市町 三宅神社二座 新潟県長岡市六日市町1775御祭神 波多武日子命・天美明命 現在の六日市三宅神社二座の社殿は明治二年に築営したもの。明治二年の「三宅神祠ノ記」によれば、その前の社殿は1712年(正徳二年)に現地で築営されたものらしい。現在…

八岐大蛇伝説と耳取遺跡(耳取遺跡展第5弾)

8/23日 みつけ伝承館で開催中の耳取遺跡展第5弾を再訪しました。 国史跡答申の理由 1.縄文中期〜後期〜晩期に渡る国内有数の大遺跡 (3遺跡の集落が一つの遺跡に存在するのは北陸において希有、全国的にも貴重) 2.縄文後期の集落は北陸最大 3.中期遺跡出土…

古志の八岐大蛇伝説(高志之八俣遠呂知)

2015/8 新潟日報 地域版 「日本書紀」では「八岐大蛇」、「古事記」では「八俣遠呂智」と書かれる。特に「古事記」では「高志之八俣遠呂知」と書かれて、地域名の「高志」が強調されている。 その「古志」地域の中心にある式内社「小丹生神社」の鎮座する地…

波多武日子命と秦との関係について

三宅神社に伝わる社伝に「元素人皇八代孝元帝の皇子大彦命の男宮波多武日子命越の国を賜り玉ふ。時に新羅王子天日桙命を倶い中津国に至り天皇に仕へ奉る。この時越の川東を賜り波多武日子命、天美明命を婚り合せ此の国に至り賜ふ。」の一文がある。 この伝承…

三宅神社の祭神について

◯波多武日子命・天美明命 ◯天日桙命 ◯大彦命 六日市町 三宅神社:波多武日子命・天美明命の二座 中潟町 三宅神社:天日桙命 妙見町 三宅神社:大彦命 三宅神社の祭神が記載された最古の記録は、 「神祇宝典」1646年(正保3年)の ◯古志郡 三宅神社二座 三宅…

延喜式内 三宅神社二座  『当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫』   

延喜式内 三宅神社二座 当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫 寛文5年(1665年) (不明部分有るため概要) 越の宗廟三宅神社の由来は、元素人皇八代孝元帝の皇子大彦命の男宮波多武日子命越の国を賜り玉ふ。時に新羅王子天日桙命を倶い中津国に至り天皇に仕へ奉…

HPから引っ越しました。

こらから少しずつ充実させる予定です。 今後ともどうぞよろしくお願いします。 千年の昔、延喜式神名帳に記載された古志郡筆頭社「三宅神社二座」 神の隠れ住まう杜「神名倉」の麓に営々と続く多くの謎と伝承が残された当地域の歴史と文化を紹介します。